写真は、戦前(時期不明)に作られた絵葉書(管理人の所蔵資料)
2010年3月3日。
今からちょうど150年前、江戸城桜田門外において大老井伊直弼が暗殺されました。
彦根を語る上で、この事件は欠かせない物ですので、すでにこのブログ内でも紹介しています。
『桜田門外の変』←ここから過去の記事に行けます。
事件の経過は重複になりますので、今回は先日発行になった『どんつき瓦版』第21号の中身から桜田門外の変のこぼれ話をご紹介します。
≪桜田門外の変こぼれ話≫
○仲間に誘われた坂本龍馬
井伊直弼襲撃計画は大老就任直後から何度も練られていました。しかし同志の数やその後の幕府改革計画を考えると協力者の数が少なかった為に、水戸藩士たちは西国を中心に諸藩から同志を募る事にしたのです。
この時に中心となった人物が、桜田門外の変で実行者の一人となる関鉄之介と、水戸藩の尊皇攘夷運動の指導者となっていた住谷寅之介でした。
住谷は土佐藩の下士たちに望みを持って土佐国境の立川番所で面会した人物が坂本龍馬だったのです安政5年11月23日の事でした。国論を唱えて龍馬を説得しようとした住谷でしたが、龍馬は幕府役人の名前すら知らず、失望し諦める事となった住谷は「空敷、日々を費やし、遺憾々々」と日記に残しています。しかし龍馬の人柄については「龍馬誠実可人物なり」とも「頗愛可人物なり」とも記されていたのです。桜田門外の変に直接加わらなかった住谷は、水戸藩に残り、文久3年(1863)から京都で活躍しました。同じ時期に京都で活躍した龍馬のことをどう感じていたのでしょうか?
慶応3年6月13日、土佐藩足軽・山本旗郎に住谷は暗殺されました。約半年後に500m程しか離れていない近江屋で坂本龍馬も暗殺されるのです。
ちなみに大河ドラマ『龍馬伝』では、江戸で武市半平太や桂小五郎と共に龍馬と住谷が邂逅するシーンが描かれていました。
○茶店のオヤジは見た!~もう一つの桜田門外~
桜田門外で井伊直弼の首が斬られてから、直弼を襲った水戸浪士たちは、ある者は自害ある者は自首そしてある者は現場から逃れ、それぞれの後日談を残しています。その殆どは、本人か関係者の証言によって証明されているのですが、そんな記録に残っていない話が直弼の次女・弥千代の嫁ぎ先である高松に残っています。
事件当日、直弼の行列の後ろを弥千代の夫である高松藩世子・松平聰の行列が続いたのです。水戸浪士の襲撃はあっという間に終わり、聰は舅の死の現場を間近に見てしまいました。
幕府最高責任者の首を斬って興奮した浪士たちは、血の滴り落ちる刀を鞘に納めないままに聰の駕籠に襲い掛かり、葵の紋が入っているのも無視して引き戸を引きちぎり聰の顔を見たのです。そして「なんだ、萬之助(聰の幼名)か…」と言ってその場を去って行ったと言われています。
この現場を目撃して、後世に残したのは桜田門近くの茶店の者だったそうで、その者が高松と同じ讃岐国(香川県)の丸亀出身者だったことから、地元に話が伝わったのだとか…
一説には、水戸浪士は井伊直弼以外にも、高松藩主・松平胤(聰の義父)と老中・安藤正睦(後に坂下門外で水戸浪士に襲われ失脚)が狙われていて、胤が乗っていると思った駕籠に聰が乗っていた為に「なんだ」という言葉が出たとも言われているのです。
○東海道のその瞬間
桜田門外の変の悲報を伝える早駕籠は、その日の内に彦根に向けて出発しました。この時の使者は大久保小膳と高野瀬喜介宗忠でした。国許がこの報せを受けたのは3月7日夜半だったのですが、近江商人の情報網はこれよりも半日早くに京にまで伝わっていたそうです。商人の情報に対する敏感さを示すエピソードとして時々語られています。
一方、水戸浪士たちは、生き残った者の中で京に向かう一行が居たのです。薩摩藩士有村俊斎(次左衛門の兄)とその従者の恰好をした水戸浪士金子孫二郎(実行犯)、佐藤鉄三郎(見届け人)が、東海道を西へ箱根の関を越え三島宿に着いた頃、後ろから大きな掛け声と共に井伊家の槍印を立てた早駕籠が迫っていたのです。その駕籠に乗った武士が三人を睨みながら追い抜いて行き早駕籠はそのまま進んで行きました。
事件後に、彦根藩士と実行犯が同じ場所に居た一瞬の出来事だったのです。
ただし、この証言では早駕籠に乗っていた武士は、抱き茗荷の家紋を付けた人物しか伝わっていません。彦根藩士の家紋は調べていないのでなんとも言えませんが、この人物が大久保小膳か高野瀬喜介だったのか、それとも別の人物なのか?
興味深いです。
○首の行方
今の定説では、直弼の首は有村次左衛門によって斬られ、有村が遠藤但馬守(若年寄)邸の辻番所前で首を預けて自害した為に、事件後に井伊家が「家臣の加田九郎太の首」として遠藤家に行って首を受け取り、彦根藩医・岡島玄達が首と胴を繋いだ。となっています。
しかし、水戸では「この時に井伊家に行ったのは加田の首で、本物は水戸に持ち帰られえた」との説が残っています。
事件に参加した広木松之介が、密かに水戸に持ち帰りさらし首にしようとしたのですが、水戸藩ではその行為に恐れをなし(水戸藩では桜田門外の関係者捕縛に全力を尽くしています)首を突き返します。
結局、首は広木がそのまま首を持っていたようですが文久2年(1862)3月3日に同志が刑死してゆく現状に耐えられず自害します。昭和37年になって、広木の関係者から井伊家に対して首の骨を返還する話があったのですが、井伊家では「井伊直弼は五体が揃った状態で豪徳寺に葬られている」との返事があり、この首は水戸市の妙雲寺に“大老井伊掃部頭直弼台霊塔”が建碑されて供養されたのです。
星亮一さんの『井伊直弼』という小説のあとがきに面白い話があります。
桜田門外の変から、直弼が豪徳寺に埋葬されるまでの2カ月間(3/3から閏3月を含んで4/9まで)、直弼の遺体はどうなっていたのか?との疑問です。
これを母利美和さん(当時の彦根城博物館の学芸員)が「塩漬けにしたという話がある」と回答されたと書かれていました。
2ヶ月間、塩漬け状態で直弼の遺体が残っていたのなら、幕府の検視(直弼の死は公にできないので建前上は見舞)や跡を継いだ息子の直憲、そして正室の昌子など直弼の顔を見れる人物は少なからず存在したと思います。また宇津木六之丞あたりなら首が偽物だったなら藩士に密かに探させたのではないでしょうか?
それに、もし偽首なら事情が分かった重臣クラスが密かに火葬してしまうと思います。
塩漬けの話が本当なら、首は本物。火葬した形跡があるなら偽物と考えられるかもしれませんね。
○井伊家の警備は甘かったのか?
桜田門外の変の直前に直弼宛に危険を報せる文が投げ込まれたのを無視したり、2月28日には直弼の友人の松平信斉が「命を狙われているので供の数を増やすように」と進言すると直弼が断ったりと、直弼は命を落としても大老としての職務を全うしたイメージがあります。
しかし、明治になって島田三郎が書いた『開国始末』の取材で出た話では「夜の供廻りは増やしていたが、安政7年になって止めた」との証言を旧彦根藩士から得ているのです。
実は直弼暗殺計画は安政5年10月1日からありました。この頃から警戒をしていた彦根藩でしたが1年半近く何事も起きず、長い緊張感で必要以上に疲労していた可能性は否めません。無為な1年半を過ごした後の疲労感と油断こそが、水戸浪士の襲撃成功になったのかもしれません。
桜田門外の変は、調べれば調べるほど色んなエピソードが登場します。
まだまだ隠れた話があるのかもしれません。
150年目のその日に、彦根では公式に何かのイベントがあるとの話は聞いていませんが、せめて個人レベルでもこの日を彦根の一つの分岐点として、直弼についての何かを想い巡らせて欲しいと思います。
2010年3月3日。
今からちょうど150年前、江戸城桜田門外において大老井伊直弼が暗殺されました。
彦根を語る上で、この事件は欠かせない物ですので、すでにこのブログ内でも紹介しています。
『桜田門外の変』←ここから過去の記事に行けます。
事件の経過は重複になりますので、今回は先日発行になった『どんつき瓦版』第21号の中身から桜田門外の変のこぼれ話をご紹介します。
≪桜田門外の変こぼれ話≫
○仲間に誘われた坂本龍馬
井伊直弼襲撃計画は大老就任直後から何度も練られていました。しかし同志の数やその後の幕府改革計画を考えると協力者の数が少なかった為に、水戸藩士たちは西国を中心に諸藩から同志を募る事にしたのです。
この時に中心となった人物が、桜田門外の変で実行者の一人となる関鉄之介と、水戸藩の尊皇攘夷運動の指導者となっていた住谷寅之介でした。
住谷は土佐藩の下士たちに望みを持って土佐国境の立川番所で面会した人物が坂本龍馬だったのです安政5年11月23日の事でした。国論を唱えて龍馬を説得しようとした住谷でしたが、龍馬は幕府役人の名前すら知らず、失望し諦める事となった住谷は「空敷、日々を費やし、遺憾々々」と日記に残しています。しかし龍馬の人柄については「龍馬誠実可人物なり」とも「頗愛可人物なり」とも記されていたのです。桜田門外の変に直接加わらなかった住谷は、水戸藩に残り、文久3年(1863)から京都で活躍しました。同じ時期に京都で活躍した龍馬のことをどう感じていたのでしょうか?
慶応3年6月13日、土佐藩足軽・山本旗郎に住谷は暗殺されました。約半年後に500m程しか離れていない近江屋で坂本龍馬も暗殺されるのです。
ちなみに大河ドラマ『龍馬伝』では、江戸で武市半平太や桂小五郎と共に龍馬と住谷が邂逅するシーンが描かれていました。
○茶店のオヤジは見た!~もう一つの桜田門外~
桜田門外で井伊直弼の首が斬られてから、直弼を襲った水戸浪士たちは、ある者は自害ある者は自首そしてある者は現場から逃れ、それぞれの後日談を残しています。その殆どは、本人か関係者の証言によって証明されているのですが、そんな記録に残っていない話が直弼の次女・弥千代の嫁ぎ先である高松に残っています。
事件当日、直弼の行列の後ろを弥千代の夫である高松藩世子・松平聰の行列が続いたのです。水戸浪士の襲撃はあっという間に終わり、聰は舅の死の現場を間近に見てしまいました。
幕府最高責任者の首を斬って興奮した浪士たちは、血の滴り落ちる刀を鞘に納めないままに聰の駕籠に襲い掛かり、葵の紋が入っているのも無視して引き戸を引きちぎり聰の顔を見たのです。そして「なんだ、萬之助(聰の幼名)か…」と言ってその場を去って行ったと言われています。
この現場を目撃して、後世に残したのは桜田門近くの茶店の者だったそうで、その者が高松と同じ讃岐国(香川県)の丸亀出身者だったことから、地元に話が伝わったのだとか…
一説には、水戸浪士は井伊直弼以外にも、高松藩主・松平胤(聰の義父)と老中・安藤正睦(後に坂下門外で水戸浪士に襲われ失脚)が狙われていて、胤が乗っていると思った駕籠に聰が乗っていた為に「なんだ」という言葉が出たとも言われているのです。
○東海道のその瞬間
桜田門外の変の悲報を伝える早駕籠は、その日の内に彦根に向けて出発しました。この時の使者は大久保小膳と高野瀬喜介宗忠でした。国許がこの報せを受けたのは3月7日夜半だったのですが、近江商人の情報網はこれよりも半日早くに京にまで伝わっていたそうです。商人の情報に対する敏感さを示すエピソードとして時々語られています。
一方、水戸浪士たちは、生き残った者の中で京に向かう一行が居たのです。薩摩藩士有村俊斎(次左衛門の兄)とその従者の恰好をした水戸浪士金子孫二郎(実行犯)、佐藤鉄三郎(見届け人)が、東海道を西へ箱根の関を越え三島宿に着いた頃、後ろから大きな掛け声と共に井伊家の槍印を立てた早駕籠が迫っていたのです。その駕籠に乗った武士が三人を睨みながら追い抜いて行き早駕籠はそのまま進んで行きました。
事件後に、彦根藩士と実行犯が同じ場所に居た一瞬の出来事だったのです。
ただし、この証言では早駕籠に乗っていた武士は、抱き茗荷の家紋を付けた人物しか伝わっていません。彦根藩士の家紋は調べていないのでなんとも言えませんが、この人物が大久保小膳か高野瀬喜介だったのか、それとも別の人物なのか?
興味深いです。
○首の行方
今の定説では、直弼の首は有村次左衛門によって斬られ、有村が遠藤但馬守(若年寄)邸の辻番所前で首を預けて自害した為に、事件後に井伊家が「家臣の加田九郎太の首」として遠藤家に行って首を受け取り、彦根藩医・岡島玄達が首と胴を繋いだ。となっています。
しかし、水戸では「この時に井伊家に行ったのは加田の首で、本物は水戸に持ち帰られえた」との説が残っています。
事件に参加した広木松之介が、密かに水戸に持ち帰りさらし首にしようとしたのですが、水戸藩ではその行為に恐れをなし(水戸藩では桜田門外の関係者捕縛に全力を尽くしています)首を突き返します。
結局、首は広木がそのまま首を持っていたようですが文久2年(1862)3月3日に同志が刑死してゆく現状に耐えられず自害します。昭和37年になって、広木の関係者から井伊家に対して首の骨を返還する話があったのですが、井伊家では「井伊直弼は五体が揃った状態で豪徳寺に葬られている」との返事があり、この首は水戸市の妙雲寺に“大老井伊掃部頭直弼台霊塔”が建碑されて供養されたのです。
星亮一さんの『井伊直弼』という小説のあとがきに面白い話があります。
桜田門外の変から、直弼が豪徳寺に埋葬されるまでの2カ月間(3/3から閏3月を含んで4/9まで)、直弼の遺体はどうなっていたのか?との疑問です。
これを母利美和さん(当時の彦根城博物館の学芸員)が「塩漬けにしたという話がある」と回答されたと書かれていました。
2ヶ月間、塩漬け状態で直弼の遺体が残っていたのなら、幕府の検視(直弼の死は公にできないので建前上は見舞)や跡を継いだ息子の直憲、そして正室の昌子など直弼の顔を見れる人物は少なからず存在したと思います。また宇津木六之丞あたりなら首が偽物だったなら藩士に密かに探させたのではないでしょうか?
それに、もし偽首なら事情が分かった重臣クラスが密かに火葬してしまうと思います。
塩漬けの話が本当なら、首は本物。火葬した形跡があるなら偽物と考えられるかもしれませんね。
○井伊家の警備は甘かったのか?
桜田門外の変の直前に直弼宛に危険を報せる文が投げ込まれたのを無視したり、2月28日には直弼の友人の松平信斉が「命を狙われているので供の数を増やすように」と進言すると直弼が断ったりと、直弼は命を落としても大老としての職務を全うしたイメージがあります。
しかし、明治になって島田三郎が書いた『開国始末』の取材で出た話では「夜の供廻りは増やしていたが、安政7年になって止めた」との証言を旧彦根藩士から得ているのです。
実は直弼暗殺計画は安政5年10月1日からありました。この頃から警戒をしていた彦根藩でしたが1年半近く何事も起きず、長い緊張感で必要以上に疲労していた可能性は否めません。無為な1年半を過ごした後の疲労感と油断こそが、水戸浪士の襲撃成功になったのかもしれません。
桜田門外の変は、調べれば調べるほど色んなエピソードが登場します。
まだまだ隠れた話があるのかもしれません。
150年目のその日に、彦根では公式に何かのイベントがあるとの話は聞いていませんが、せめて個人レベルでもこの日を彦根の一つの分岐点として、直弼についての何かを想い巡らせて欲しいと思います。
今度ご迷惑をおかけした井伊様へご挨拶と見学をしたく彦根への旅を計画しておりましたところこちらのHPにたどり着きました。
先祖のお話しを記載いただきましてありがとうございます。
寅之介も喜んでいると思います。
子供の頃から父親から色々と話を聞かされておりましたが、恥ずかしながら50歳を過ぎまして自分のルーツを調べたりしております。
豪徳寺へも出向き嫌がられるかも知れませんが、ご挨拶をしたいと思っております。
ありがとうございます。
そうですね、調査結果が楽しみです。
ただ、井伊家の場合は火葬している可能性も高いですので、もしかしたら期待する物が出ない可能性もありますね。。。
定説って、(後世に)公式と決めた文献に載って言う事。くらいの意味でしょうか(苦笑)
豪徳寺のレーダー調査で、万が一何も出てこないとしたら、「定説」そのものが疑わしいこととなります。
「定説」って一体何なんでしょうね?
http://blogs.yahoo.co.jp/fyuhara/11260838.html
コメントありがとうございます。
井伊家を調べておられる分に耐えうる内容かは解りませんが、楽しんでくださいね。
この高松藩の話は四国新聞社の『讃岐人物風景9』という本の松平千代(井伊弥千代)の話に載せられていました。
水戸浪士のうちの誰がここに加わったのかは調べても解りませんでした…
管理人自身は、この警備の頼りなさと「なんだ、萬之助か…」という言葉が、明治に入ってからの高松藩での惨劇に繋がったのではないか?と個人的には考えています。
井伊直弼や井伊家に興味を持ち、あれこれ調べているうちにこちらのブログに辿り着きました。何卒良しなに。
>○茶店のオヤジは見た!~もう一つの桜田門外~
こんな話があったのは初めて聞きました! 井伊家と高松松平家との縁の深さを示すエピソードですね。
水戸と高松も元は縁戚だと言いますし、高松藩のその後の歩みを考えると切なくなります。
#…けど流石に警備が薄すぎるんじゃ? とは思いますが(笑)
年内には吉村昭先生の桜田門外ノ変も映画になるとかで…伊武雅刀さんが直弼役だそうです。
一昨年の篤姫の直弼もそうですが、龍馬伝を含め今年も井伊直弼の名を度々聞く事になりそうですね。
今後も様々な井伊家のお話、楽しみにしております。