彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

安土のほんまもんツアー『日本最大級中世の城「観音寺城」を歩く』

2011年11月20日 | イベント
安土のほんまもんツアー『日本最大級中世の城「観音寺城」を歩く』というイベントが行われました。
講師は織豊系城郭研究の第一人者で、滋賀県立大学准教授の中井均先生です。

まずは安土城郭資料館で集合します。
資料館の前に置かれていた信長の南蛮甲冑から参加者さんの様子を覗いてみました。



前日が雨だったので足元に不安がありますが、今日の天気は良さそうです。参加される方も想い想いに交流中のご様子ですね。

最初は、城郭資料館の中にある現地のジオラマを使ってお話が始まりました。
先生がおっしゃられるには、日本のマチュピチュなのだそうです。

奥に見える低い山が安土山ですので、観音寺山の高さがわかりますね。そこを登って行きます。
観音寺城は、山頂には本丸がなかったそうです、それは元々ここに山が観音正寺の山であり、最初はお寺の方が力が強く、だんだん城主である六角氏の力が強くなり、やがてお寺は麓に移されたとのことで、もともとお寺の意向があった加減から山頂に本丸が置けなかったのではないか。とのことでした。
ちなみにお寺は慶長年間に山の上に戻るそうです。
そして観音寺城は、安土城以前に石垣が作られていた城の一つであること、麓の桑実寺には室町幕府12代将軍が一時期幕府を置いていたこともある場所であることもお話されました。

そんな話を聴いて期待に胸膨らませて出発です。

まずは麓の天満宮に向かいます。

ここに登る石段の途中を脇にそれると、大きな高石垣が見学できます。
隅石が算木積みではなく、まっすぐな石垣は古い事を示しているそうです。

しかし6mの高さの見事な石垣です。上に天満宮が鎮座する辺りが御館跡なのだそうですが、調査はまだされていないので詳しいことはわからないのだとか。


ここから、1200段の石段を登って観音寺城を目指します。
白洲正子さんが、石段を登っている間に無我になれて、まるで悟りを開いたような心地になれると記した石段です。息を切らせながら登りますが、たくさんの人数で登っているからでしょうか?思ったよりも苦ではなく、いつの間にか2/3ほど登っていました。

そこからまた登り続けると、階段の横には家臣の屋敷があったと思われる石垣も出てきます。

安土城以前とは信じられないくらいの石垣です。

登りきると、いったん伝布施淡路守屋敷跡に向かいました。
その途中には、城の門と思われる場所もあります。

そしてその近くに、これほど大掛かりな石垣の城を造りにあたって石はどこから調達したのか?を示す物も残っています。観音寺山に多く点在する巨石をそのまま石垣に組み合わせたり、割って使ったりしたそうです。
割った痕が観れる石も存在するのです。

門の外側に、まるで門に来る人間を監視するかのように伝布施淡路守屋敷があります。

屋敷の周囲は石垣と土塁に囲まれていて、入口は虎口になっています。

よく、観音寺城は防御施設のない居館城郭と言われ、分譲住宅のように家臣に曲輪が与えられた城との評価がありますが、石垣の技術や屋敷の配地、虎口の存在を観てもただの居館城郭ではなく、軍事施設としての一面も見受けられるようです。


ここから、いったん食事を挟んで観音正寺本堂と内陣の見学です。

住職のお話に耳を傾け、御本尊様を拝観


心が休まったところで、城巡り再開です。
今、お寺がある下には慶長年間かそれ以降、造りでは18世紀以降の石垣が積まれています。
その石垣と、戦国期の石垣の境になる場所では石垣の変化が一遍に観れます。

新しい時代から古い時代の場所の足を進め、しばらく進むと本丸跡に到着します。

裏口は石垣が積まれ虎口になっています。

季節が良かったのでしょうか?きれいな紅葉が観れました。

相変わらずの写真のピントをずらして、紅葉と石垣を撮影してみました。
  本丸は、礎石があり、時仏堂があった場所には瓦も数枚出土したそうです。これは安土城以前では観音寺城のみにみられるのだとか。

また礎石がある地面の部分には幾つも掘り返したような跡があったのですが、早朝に猪がミミズを求めて掘った跡なのだそうです。これが礎石を破損してしまう原因にならないか心配ですね。
礎石には水路も認められ、その水路の先には貯水施設もあったみたいです。

さて、裏の虎口には、後から付け足したと考えられる石垣があります。
左側の部分は、織田信長が攻めてくる時に急いで造ったもいのと考えられるそうです。

ちなみに、裏側はこれほどの防備がありますが、表にはメインとなる道が造られていて、そこを塞ぐような大掛かりな門はなかったようです。
あったのは本丸からまっすぐ伸びる広い道です。

↑上から見る

↑下から見上げる
しかし、全ての家臣がこの道をまっすぐ登ってこれるわけではなく、身分の低い者は途中から脇にそれて裏から入れるようになっていた様子がうかがえる、脇に分れる道も確認できます。

石垣を保護するための水路も石段の横に設置されていて、暗渠も認められます。

まさしく、大がかりな城だったんですね。

ちなみに今までずっと石垣と書いてきましたが、観音寺城は施設の外側に石を積むだけではなく、基礎となる土を囲む形で施設の外にも内にも石を積み上げました。これは石垣ではなく石壁になり、国内でこのような築城方式を採っているのは観音寺城以外では沖縄でしかみられないそうです。
そんな意味でも観音寺城は他で見れない部分があるそうです。

この次は、伝平井屋敷です。平井氏は六角氏の重臣で、平井定武という人物の娘は浅井長政に嫁いだこともありました。つまり浅井氏は六角氏の家臣の娘辺りがつりあいのとれた身分であると公言されていたのです。
織田信長も決して身分が高い家ではありませんので、こののちに信長の妹のお市が浅井長政に嫁ぐのも身分的な問題はなかったそうです。


ここから、伝池田屋敷に向かって進みます。
その間には、まるで分譲住宅のようなせまい区画に道に面した門という家臣屋敷の区画もあります。




伝池田屋敷はとても広い空間です。とても一人の家臣に与えられた場所とは思えないくらいです。

そしてここも石壁に囲まれています。

外側の石には、手を加えた矢立の跡がはっきりわかる場所があります。



観音寺城には矢立があるのに、安土城からは見つかっていないそうです。それは石工が違った事をしめす理由にもなるのですが、観音寺城の石をこれほど巧みに積みあげた石工を安土築城に参加させなかったのはいかなる訳なのか?
戦国史の裏を読み解く問題があるのかもしれませんよ。


見学の最中に、先生に観音寺騒動で重臣たちが屋敷を焼いた跡が出ているのかを質問してみたのですが、未発掘の為にわからないそうです。でも一か所焼けた跡が出た場所があったそうです。

今はその場所は埋まっているそうですが、この石垣の下に確実に焼けた場所があったことが確認されているのだとか…

ここで、観音寺城の見学が終わり、山を下りました。
そして麓にある教林坊を訪れました。



本堂で説明を聞きます。

ここのお庭は小堀遠州の作庭した庭なのだそうです。



聖徳太子が説法をされたという岩もあります。

その岩の足元に観音様が祀られています。

また、室町時代に作られたお庭も観ることができます。江戸と室町のお庭の共有でもあるのです。

水の音を甕の中に反響させて琴のように聞こえるという水琴甕の音色も、心静かに聴いてみると洗われた気持ちになりました。

らんまるくんも待っていてくれて、ほのぼのとしましたよ。



こうして、観音正寺を登り、観音寺城を巡り教林坊までを散策したほんまもんツアーは無事に終了しました。
散策中は天気に恵まれ、終了し日が落ちてから雨が降りました。
晴男の中井先生の力と、参加者全員の想いが天気すら動かしたようなイベントでした。
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東京訪問記4:江戸城 平河門~外桜田門

2011年11月17日 | 日本100名城と続100名城
北の丸をぐるっと回り、再び北詰門橋まで出たので、そのまま平河濠沿いに進みます。

そして平河門から江戸城内に入ることにしました。

以前から時々書きますが、古く残っている橋の擬宝珠は色んな情報が詰まっています。
特に見やすかった物を覗いただけでも慶長や寛永の文字が普通にでてきます。つまりは家康や家光の時代に目の前の物が作られた証なのです。



変な主張をするならば、確実に触ることができる歴史的な遺物でもあるのです。
いずれは擬宝珠も評価され博物館の中に入ってもおかしくないので、観て触れられる間にたくさん観た方がいい物だと思いますよ。

余談はさておき、ここから門を潜ると天神濠を経て二の丸に至ります。

平河門は、大奥の関係者が通る門でしたので、春日局が帰城時間に遅れて門の締め出しを受けて夜明けまで門外で待たされたという逸話があるのはここかもしれません。
しかし、その一方でこの門は江戸城内で罪人が出た時や死人があった時に城の外に出すための門だったために不浄門との異名も付いています。
絵島もここから高遠に向かって行ったといわれています。


二の丸は本丸の下にあたりますので、本丸を見上げる形になる石垣も積まれています。

その途中にあるのが本丸へと通じる汐見坂です。今はここから海を見ることはできませんが、江戸城が築城された時は、ここから海が見えたので汐見と命名されたそうです。



汐見坂の隣りは白鳥濠です。

二の丸の庭園は小堀遠州の作庭したお庭です。

こうして、再び大手門に辿り着き、本丸・北の丸・二の丸見学は終わりました。
ここからお濠沿いを桜田門まで歩きました。


まずは桜田櫓と呼ばれる二重櫓を目にします。

この近くにあるのが桔梗門(内桜田門)です。皇居を参観する時はこの門から入ります。

そして次には坂下門が見えます、坂下門の向かって右側に宮内庁の建物があるのが確認できます。

坂下門と言えば、坂下門外の変で有名です。どの辺りで起こったのかを訪ねてもいまいちピンとくる答えはありませんでしたが、門前ではないかとのことでした。

今でこそ広い空間ですが、江戸期にはここに老中などの要職の大名の屋敷が並んでしたのです。坂下門はそれらの大名が登城するための専用の門でした。ここで襲撃事件が起こったのは、もしかすると桜田門外の変よりもあり得ない事態だったのかもしれませんよ。

そんな歴史の現場から西の丸大手門に移動すると、有名な二重橋が観れます。

右に見える二重櫓は伏見櫓です。

伏見城から移築されたという櫓ですが、関東大震災の時に下の石垣が崩れて十六体の立ったままで埋葬された白骨が見つかりました。その遺体にはそれぞれに古銭が付けられていたそうです。
この事件は、震災のごたごたで闇に葬られた形になっていますが、今も何の為の遺体だったのかはっきりしたことはわかっていません。
美しい景色の中にそんな歴史も混ざっているのです。

ここから一番近い城外に出る門が、外桜田門です。

この門の前が、桜田門外の変が起きた現場でもあります。

彦根市民としてはやはり感慨深いものがあります。坂下門の時に要職の通る門と書きましたが、城内に屋敷を構えていない大名は、城外の上屋敷から登城するのですが、外桜田門も要人が通る門でした。
井伊直弼が大老だったために外桜田門で襲われますが、もし大老職になければ、ここではなく大手門からの登城となっていたのです。


外桜田門を出て、江戸城の散策は終わりです。次は旅の目的地の一つだった増上寺に向かったのです。
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東京訪問記3:江戸城 北の丸と周辺

2011年11月16日 | 日本100名城と続100名城
北詰門を出て濠を越えると、江戸城では北の丸と呼ばれていた曲輪跡になります。

家康が江戸城に入ってすぐの頃は、まだ城の外という扱いでしたので、伊奈氏などの関東代官の屋敷がありました。
江戸城の大幅な築城に伴って北の丸として機能し、大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』に登場する春日局(お福)や千姫の屋敷がありました。

現在は科学技術館や国立近代美術館があるのもここです。
また、日本武道館もここにあります。

武道館の前の駐車場を中心に、御三卿の田安家の屋敷がありました。田安家は松平定信を輩出した言えですね。

そんな田安家の屋敷近くにあったのが田安門です。


 

田安門から濠を越えると、濠沿いに二体の像があります。
【品川弥二郎】

【大山巌】


そしてその向こうには靖国神社があります。

ここには大村益次郎が上野を向いている像があります。

管理人が喪中のため、神社には入れませんので靖国神社には行っていませんが、こんな歴史も東京には刻まれているのです。

それは、北の丸を囲む濠沿いを歩くと他にも観れます。
大村益次郎も一時期席を置いた、阿部正弘が作った蕃書調所。後の東京大学に繋がる江戸幕府の施設です。

226事件の時に戒厳司令部が置かれた九段会館。東日本大震災の影響で天井が落ち、そのことで取り壊しの運動も起こっているそうですが、昭和史を刻む貴重な建物でもありますので、どんな形でも残って欲しい、戸心的な気持ちもあります。


これらを観ながら濠沿いに進むと、清水門が見えてきます。

門を潜って、吉田茂像がある辺りが、御三卿の清水家の屋敷跡です。
  

次回は、平河門から再び城内に入り、二の丸を通って桜田門まで紹介します。
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東京訪問記2:江戸城 大手門~本丸

2011年11月15日 | 日本100名城と続100名城
将門塚に寄った後、江戸城のお濠沿いに大手門へと向かいました。

広い水濠は、今まで見てきたどの城にも匹敵しない凄さでした。

そして、大手門



大手門は元々10万石以上の譜代大名が警護を任されていた場所です。つまりこれより内側は世が世なら入ることがまったく許されない場所なんですよね。

中に入ると、壁の一部が落ちているところがありました。

警備をされていた方に訊ねると、3月11日に落ちたとのことでした。東日本大震災の爪跡は東京にはっきり残っています。天皇陛下がお住まいになる皇居の近くでもまだこの状態ならば、他の場所はどれだけ大変なのでしょうか。
関西にいては感じられない物の一部を観た気もしました。


城内には、幾つかの番所の建物も残っていました。

【同心番所】

【百人番所】

【大番所】

当然の事ながら、本丸に近づくにつれて建物も広く立派になり、説明書を読む限りでは、警護の者の身分が高くなっているようにも感じます。
これらの番所に詰めた武士が、交代で警護したり休憩のときに酒を飲んだり談笑したりしている様子を思い浮かべると、敷地内で何人も見かけた現在の警察官の方のほうが緊張感が大きいのではないかとも思えて頭が下がるお気持ちです。

そんな番所は、門を越えるたびに置かれていたイメージがありますが、門を据えた石垣もきれいな切り込み接ぎで積んだまさに芸術でした。

この城はどれほどの力と知恵を動員したのか、計り知れないですね。

そして富士見櫓に至ります。

昔はここから本当に富士山が見えたのだと思います。

ここからは本丸の領域です。
しばらく散策すると、松之廊下の石碑を見つけました。この辺りで浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったのですね。


本丸と大奥の跡は、今でこそ地続きで区別があるようには思えませんが、昔は厳格な区切りがありました。
 
松之廊下からすぐのところに石室があり、まるで同じ建物の付属のように思える近さなのですが、この石室は大奥で荷物を保管するための施設だったそうです。
 
造りが本当に丁寧です。ここだけしかなかったのか、もっとたくさんあったのか?そんなことも疑問になります。

ちなみに本丸の跡地ではきれいな花が咲いていました。

 
管理人は植物には疎いですが、たぶん季節外れなんですよね?


富士見櫓―本丸―大奥のルートの奥には天守があります。
 
石垣の組み方、並び、思ったよりも低い感じですがそれでも美しさは幾何学的です。江戸時代にここまでの技術があったのは驚きしかありません。

天守は4代将軍家綱の時代に起きた明暦大火で焼失し、その後は再建されませんでしたので現存はしていませんし石垣には確かに焼けたような痕もあります。それがまた歴史を感じさせます。
天守台の上はベンチが置かれていて、憩いの場所になっています。

天守台から降りる時に改めて、本丸跡を眺めました。ここで江戸260年の政治が行われていたのですね。


ここから、北詰門を通って、いったん北の丸へと向かいましたので、それは次回のお話で。
 
【北詰門橋の隣りの平川堀】
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東京訪問記1:将門塚

2011年11月14日 | 史跡
11月5日6日の東京訪問をしましたので、史跡ごとに紹介していきます。

東京駅を降りて、江戸城に向かう途中に将門塚がありました。将門塚は、平将門の首塚とされるところです。
関東で新皇を称して挙兵した将門は、関東独立を目指しました。簡単にいえば武士政権を築くことを最初に宣言した人物でもあるのです。このことが将来の鎌倉幕府樹立にまで及ぶ大事な第一歩ともいえます。


しかし、天慶の乱と呼ばれる将門の乱は、藤原秀郷によって鎮圧され、将門も討ち取られたのです。
本来ならばこれだけで終わる話だったのですが、平将門はここからが多くの伝説を残す武将となります。
関東で撥ねられた首は、京に運ばれて晒されるのですが、ある晩にカッと目を見開くと、身体がある関東に向かって首が飛んで行ったのです。
もう少しで身体に出会う手前で力尽きて落ちた場所が今の将門塚なのです。

将門の首が落ちた場所に墓が建立されました。
将門の墓は、その後の長い歴史にも負けずにこの場所にあり続けます。そして明治時代には大蔵省の敷地にもなりました。
ここの移転や取り壊しは何度も話が出てくるのですが、そのたびに関係者が亡くなって行ったり事故が起こったりしたのです。将門の祟りとも言われています。
この為に、今でも東京の一等地の中にぽつんと異様な空気を残した空間になっているのです。

この石碑の後ろにある石塔は、昔は将門の墓とされていた物でした。

関東大震災で、墓が壊れたのですが、再建してこのように場所を残しています。

ちなみに、この辺りのオフィスでは将門塚に背を向けるように椅子を置くと不慮の事故が起きるそうで、将門塚にお尻を向けないのは常識なのだそうですが、その常識はどの範囲まで有効なのでしょうか?
またここは江戸時代に大老を勤めた四家の一つである酒井家の屋敷もありました。酒井家上屋敷では伊達騒動で有名な原田甲斐が殺害された場所としても有名ですね。



平将門は、怨霊として全国各地に伝承を残していますが、彦根周辺にもその伝承があります。
ひとつは中山道の宇曽川に架かる歌詰橋。


藤原秀郷が凱旋の為に東山道(中山道)を進んでいるのを、将門の首が追いかけてここで追い付き、秀郷に襲いかかろうとしたのですが、秀郷が和歌を読み、それが返せずに詰まった将門の首が落ちたとされています。近くにはこの首を葬ったといわれる塚もあります。

そして首は再び力を得て飛びあがったのですが、すぐに力が尽きて宇曽川に落下し、流されて行って荒神山の麓で拾われてまた塚山を作って葬られたのです。
この塚山は現在は残っていませんが、跡地は確定しています。


以前は塚山の上には社があり、ここに参詣すると武器が手に入るとの伝承があったといわれています。

この話は、全国に流布する将門伝説の一つにしかすぎませんが、このような形で将門の怨念を利用してその場所を守り続けたと考えられます。
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『清盛政権はなぜ生まれたか』講義受講報告

2011年11月08日 | 講演
ひこね市民大学講座 歴史手習塾セミナー10『平清盛とその時代』
1回目は『清盛政権はなぜ生まれたか』というお話でした。
講師は、東京大学史料編纂所准教授の本郷和人さん。
来年の大河ドラマ『平清盛』の時代考証を担当されます。


まずは、中世の400年の間に日本の人口が800万人から1000万人までしか増えなかったことを指摘されて、江戸時代に入って平和な100年が過ぎた1700年に2500万人まで増えていたことからも、清盛の時代から関ヶ原の400年間は、疫病、飢餓、戦争が原因となる人口が増えにくい時代とのことでした。
そんな平安時代に武力を持つことは自分を守ることであり、平和をもたらすもので、平家の武力は都の人々を守るものだったのだそうです。


この時代は、平安時代に藤原氏が天皇の外戚として権勢をふるった時代から、藤原の血が入っていない白河天皇の即位により院政が始まることになり、母方の藤原から父方の天皇家が政治を行うことになるそうです。

そして、藤原氏が源氏を重用していたので、白河上皇は平家を用いて、僧兵との武力的な対立や、瀬戸内などの西国の国守に登用して財政支援をさせたのでした。

こうして、清盛の父である忠盛は公卿になる直前まで位を極めて、清盛によって太政大臣という位まで登り詰める登りです。

そのきっかけになるのが、天皇家のお家騒動である保元の乱で、これが武力が政治を決める決定的なものとして機能し武士自身がそれを認識することになったとのことでした。


内容が目から鱗がたくさんありました。
見えにくい時代なだけに、新鮮です。

本郷先生の話は、書けない部分も面白いですので、聴きに行かれることお勧めします。
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11月7日、大阪城復興天守閣落成

2011年11月07日 | 日本100名城と続100名城
昭和6年(1931)11月7日、大阪城の復興天守閣が落成しました。
つまり、2011年11月7日は大阪城天守閣復興80年の記念日となります。

大坂城は、もともと石山本願寺が置かれていて、織田信長に本願寺が降伏して明け渡す時に火が放たれて焼けおちました。その後、豊臣秀吉によって贅を凝らした惣構えの城が築城されますが、大坂夏の陣で再び炎上。江戸時代には豊臣時代の石垣などを全て埋めてしまい、その上に新たな城を築いたのです。
『プリンセストヨトミ』などの影響で最近ではよく知られるようになりましたが、今の大阪城の石垣は徳川時代に築かれた物で、豊臣時代の石垣は地下に眠った状態なのです。

さて、そんな徳川時代の城も戊辰戦争のスタートとなる鳥羽伏見に戦いのごたごたで焼け落ちてしまいます。
家に家相があるように、城にも相があるという人はよくいますが、そんな人たちにとって大坂城は、主が滅びる時に焼け落ちる城の象徴なのだそうです。


明治時代は城を必要としない時代だったので、保存の価値があると認められた城以外は破棄されたくらいですから焼け落ちた大阪城(明治になり大坂に改称)を再建する動きはありませんでした。
しかし昭和天皇の即位の御大礼として昭和3年に大阪市が大阪城周辺を緑化公園にする計画を発表し、その計画には大阪城天守閣復興が掲げられていたのです。
大阪城天守閣復興は、大阪に住む人々の夢でした。大阪市は緑化公園計画に対して150万円の寄付金を募ったところ、大阪中から約7万8千件の申し込みが殺到して、たった半年で予算が集まったのです。


こうして計画は無事に動き始めます。この時問題となったのはどのような天守閣を作るか? だったのですが、一番重要視されたのは耐震でした。まだ関東大震災の記憶も新しく、災害に強い城が求められたのです。それが今の残る鉄筋コンクリート造りの城です。
昭和5年に始まった工事は1年半の工期を経て昭和6年11月7日落成。

その後、太平洋戦争時の空襲にも耐えきって、戦後の築城ブームの火付け役にもなったのです。
80年の歴史は、それだけでひとつの価値があり、今は登録有形文化財になっています。
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