安土のほんまもんツアー『日本最大級中世の城「観音寺城」を歩く』というイベントが行われました。
講師は織豊系城郭研究の第一人者で、滋賀県立大学准教授の中井均先生です。
まずは安土城郭資料館で集合します。
資料館の前に置かれていた信長の南蛮甲冑から参加者さんの様子を覗いてみました。
前日が雨だったので足元に不安がありますが、今日の天気は良さそうです。参加される方も想い想いに交流中のご様子ですね。
最初は、城郭資料館の中にある現地のジオラマを使ってお話が始まりました。
先生がおっしゃられるには、日本のマチュピチュなのだそうです。
奥に見える低い山が安土山ですので、観音寺山の高さがわかりますね。そこを登って行きます。
観音寺城は、山頂には本丸がなかったそうです、それは元々ここに山が観音正寺の山であり、最初はお寺の方が力が強く、だんだん城主である六角氏の力が強くなり、やがてお寺は麓に移されたとのことで、もともとお寺の意向があった加減から山頂に本丸が置けなかったのではないか。とのことでした。
ちなみにお寺は慶長年間に山の上に戻るそうです。
そして観音寺城は、安土城以前に石垣が作られていた城の一つであること、麓の桑実寺には室町幕府12代将軍が一時期幕府を置いていたこともある場所であることもお話されました。
そんな話を聴いて期待に胸膨らませて出発です。
まずは麓の天満宮に向かいます。
ここに登る石段の途中を脇にそれると、大きな高石垣が見学できます。
隅石が算木積みではなく、まっすぐな石垣は古い事を示しているそうです。
しかし6mの高さの見事な石垣です。上に天満宮が鎮座する辺りが御館跡なのだそうですが、調査はまだされていないので詳しいことはわからないのだとか。
ここから、1200段の石段を登って観音寺城を目指します。
白洲正子さんが、石段を登っている間に無我になれて、まるで悟りを開いたような心地になれると記した石段です。息を切らせながら登りますが、たくさんの人数で登っているからでしょうか?思ったよりも苦ではなく、いつの間にか2/3ほど登っていました。
そこからまた登り続けると、階段の横には家臣の屋敷があったと思われる石垣も出てきます。
安土城以前とは信じられないくらいの石垣です。
登りきると、いったん伝布施淡路守屋敷跡に向かいました。
その途中には、城の門と思われる場所もあります。
そしてその近くに、これほど大掛かりな石垣の城を造りにあたって石はどこから調達したのか?を示す物も残っています。観音寺山に多く点在する巨石をそのまま石垣に組み合わせたり、割って使ったりしたそうです。
割った痕が観れる石も存在するのです。
門の外側に、まるで門に来る人間を監視するかのように伝布施淡路守屋敷があります。
屋敷の周囲は石垣と土塁に囲まれていて、入口は虎口になっています。
よく、観音寺城は防御施設のない居館城郭と言われ、分譲住宅のように家臣に曲輪が与えられた城との評価がありますが、石垣の技術や屋敷の配地、虎口の存在を観てもただの居館城郭ではなく、軍事施設としての一面も見受けられるようです。
ここから、いったん食事を挟んで観音正寺本堂と内陣の見学です。
住職のお話に耳を傾け、御本尊様を拝観
心が休まったところで、城巡り再開です。
今、お寺がある下には慶長年間かそれ以降、造りでは18世紀以降の石垣が積まれています。
その石垣と、戦国期の石垣の境になる場所では石垣の変化が一遍に観れます。
新しい時代から古い時代の場所の足を進め、しばらく進むと本丸跡に到着します。
裏口は石垣が積まれ虎口になっています。
季節が良かったのでしょうか?きれいな紅葉が観れました。
相変わらずの写真のピントをずらして、紅葉と石垣を撮影してみました。
本丸は、礎石があり、時仏堂があった場所には瓦も数枚出土したそうです。これは安土城以前では観音寺城のみにみられるのだとか。
また礎石がある地面の部分には幾つも掘り返したような跡があったのですが、早朝に猪がミミズを求めて掘った跡なのだそうです。これが礎石を破損してしまう原因にならないか心配ですね。
礎石には水路も認められ、その水路の先には貯水施設もあったみたいです。
さて、裏の虎口には、後から付け足したと考えられる石垣があります。
左側の部分は、織田信長が攻めてくる時に急いで造ったもいのと考えられるそうです。
ちなみに、裏側はこれほどの防備がありますが、表にはメインとなる道が造られていて、そこを塞ぐような大掛かりな門はなかったようです。
あったのは本丸からまっすぐ伸びる広い道です。
↑上から見る
↑下から見上げる
しかし、全ての家臣がこの道をまっすぐ登ってこれるわけではなく、身分の低い者は途中から脇にそれて裏から入れるようになっていた様子がうかがえる、脇に分れる道も確認できます。
石垣を保護するための水路も石段の横に設置されていて、暗渠も認められます。
まさしく、大がかりな城だったんですね。
ちなみに今までずっと石垣と書いてきましたが、観音寺城は施設の外側に石を積むだけではなく、基礎となる土を囲む形で施設の外にも内にも石を積み上げました。これは石垣ではなく石壁になり、国内でこのような築城方式を採っているのは観音寺城以外では沖縄でしかみられないそうです。
そんな意味でも観音寺城は他で見れない部分があるそうです。
この次は、伝平井屋敷です。平井氏は六角氏の重臣で、平井定武という人物の娘は浅井長政に嫁いだこともありました。つまり浅井氏は六角氏の家臣の娘辺りがつりあいのとれた身分であると公言されていたのです。
織田信長も決して身分が高い家ではありませんので、こののちに信長の妹のお市が浅井長政に嫁ぐのも身分的な問題はなかったそうです。
ここから、伝池田屋敷に向かって進みます。
その間には、まるで分譲住宅のようなせまい区画に道に面した門という家臣屋敷の区画もあります。
伝池田屋敷はとても広い空間です。とても一人の家臣に与えられた場所とは思えないくらいです。
そしてここも石壁に囲まれています。
外側の石には、手を加えた矢立の跡がはっきりわかる場所があります。
観音寺城には矢立があるのに、安土城からは見つかっていないそうです。それは石工が違った事をしめす理由にもなるのですが、観音寺城の石をこれほど巧みに積みあげた石工を安土築城に参加させなかったのはいかなる訳なのか?
戦国史の裏を読み解く問題があるのかもしれませんよ。
見学の最中に、先生に観音寺騒動で重臣たちが屋敷を焼いた跡が出ているのかを質問してみたのですが、未発掘の為にわからないそうです。でも一か所焼けた跡が出た場所があったそうです。
今はその場所は埋まっているそうですが、この石垣の下に確実に焼けた場所があったことが確認されているのだとか…
ここで、観音寺城の見学が終わり、山を下りました。
そして麓にある教林坊を訪れました。
本堂で説明を聞きます。
ここのお庭は小堀遠州の作庭した庭なのだそうです。
聖徳太子が説法をされたという岩もあります。
その岩の足元に観音様が祀られています。
また、室町時代に作られたお庭も観ることができます。江戸と室町のお庭の共有でもあるのです。
水の音を甕の中に反響させて琴のように聞こえるという水琴甕の音色も、心静かに聴いてみると洗われた気持ちになりました。
らんまるくんも待っていてくれて、ほのぼのとしましたよ。
こうして、観音正寺を登り、観音寺城を巡り教林坊までを散策したほんまもんツアーは無事に終了しました。
散策中は天気に恵まれ、終了し日が落ちてから雨が降りました。
晴男の中井先生の力と、参加者全員の想いが天気すら動かしたようなイベントでした。
講師は織豊系城郭研究の第一人者で、滋賀県立大学准教授の中井均先生です。
まずは安土城郭資料館で集合します。
資料館の前に置かれていた信長の南蛮甲冑から参加者さんの様子を覗いてみました。
前日が雨だったので足元に不安がありますが、今日の天気は良さそうです。参加される方も想い想いに交流中のご様子ですね。
最初は、城郭資料館の中にある現地のジオラマを使ってお話が始まりました。
先生がおっしゃられるには、日本のマチュピチュなのだそうです。
奥に見える低い山が安土山ですので、観音寺山の高さがわかりますね。そこを登って行きます。
観音寺城は、山頂には本丸がなかったそうです、それは元々ここに山が観音正寺の山であり、最初はお寺の方が力が強く、だんだん城主である六角氏の力が強くなり、やがてお寺は麓に移されたとのことで、もともとお寺の意向があった加減から山頂に本丸が置けなかったのではないか。とのことでした。
ちなみにお寺は慶長年間に山の上に戻るそうです。
そして観音寺城は、安土城以前に石垣が作られていた城の一つであること、麓の桑実寺には室町幕府12代将軍が一時期幕府を置いていたこともある場所であることもお話されました。
そんな話を聴いて期待に胸膨らませて出発です。
まずは麓の天満宮に向かいます。
ここに登る石段の途中を脇にそれると、大きな高石垣が見学できます。
隅石が算木積みではなく、まっすぐな石垣は古い事を示しているそうです。
しかし6mの高さの見事な石垣です。上に天満宮が鎮座する辺りが御館跡なのだそうですが、調査はまだされていないので詳しいことはわからないのだとか。
ここから、1200段の石段を登って観音寺城を目指します。
白洲正子さんが、石段を登っている間に無我になれて、まるで悟りを開いたような心地になれると記した石段です。息を切らせながら登りますが、たくさんの人数で登っているからでしょうか?思ったよりも苦ではなく、いつの間にか2/3ほど登っていました。
そこからまた登り続けると、階段の横には家臣の屋敷があったと思われる石垣も出てきます。
安土城以前とは信じられないくらいの石垣です。
登りきると、いったん伝布施淡路守屋敷跡に向かいました。
その途中には、城の門と思われる場所もあります。
そしてその近くに、これほど大掛かりな石垣の城を造りにあたって石はどこから調達したのか?を示す物も残っています。観音寺山に多く点在する巨石をそのまま石垣に組み合わせたり、割って使ったりしたそうです。
割った痕が観れる石も存在するのです。
門の外側に、まるで門に来る人間を監視するかのように伝布施淡路守屋敷があります。
屋敷の周囲は石垣と土塁に囲まれていて、入口は虎口になっています。
よく、観音寺城は防御施設のない居館城郭と言われ、分譲住宅のように家臣に曲輪が与えられた城との評価がありますが、石垣の技術や屋敷の配地、虎口の存在を観てもただの居館城郭ではなく、軍事施設としての一面も見受けられるようです。
ここから、いったん食事を挟んで観音正寺本堂と内陣の見学です。
住職のお話に耳を傾け、御本尊様を拝観
心が休まったところで、城巡り再開です。
今、お寺がある下には慶長年間かそれ以降、造りでは18世紀以降の石垣が積まれています。
その石垣と、戦国期の石垣の境になる場所では石垣の変化が一遍に観れます。
新しい時代から古い時代の場所の足を進め、しばらく進むと本丸跡に到着します。
裏口は石垣が積まれ虎口になっています。
季節が良かったのでしょうか?きれいな紅葉が観れました。
相変わらずの写真のピントをずらして、紅葉と石垣を撮影してみました。
本丸は、礎石があり、時仏堂があった場所には瓦も数枚出土したそうです。これは安土城以前では観音寺城のみにみられるのだとか。
また礎石がある地面の部分には幾つも掘り返したような跡があったのですが、早朝に猪がミミズを求めて掘った跡なのだそうです。これが礎石を破損してしまう原因にならないか心配ですね。
礎石には水路も認められ、その水路の先には貯水施設もあったみたいです。
さて、裏の虎口には、後から付け足したと考えられる石垣があります。
左側の部分は、織田信長が攻めてくる時に急いで造ったもいのと考えられるそうです。
ちなみに、裏側はこれほどの防備がありますが、表にはメインとなる道が造られていて、そこを塞ぐような大掛かりな門はなかったようです。
あったのは本丸からまっすぐ伸びる広い道です。
↑上から見る
↑下から見上げる
しかし、全ての家臣がこの道をまっすぐ登ってこれるわけではなく、身分の低い者は途中から脇にそれて裏から入れるようになっていた様子がうかがえる、脇に分れる道も確認できます。
石垣を保護するための水路も石段の横に設置されていて、暗渠も認められます。
まさしく、大がかりな城だったんですね。
ちなみに今までずっと石垣と書いてきましたが、観音寺城は施設の外側に石を積むだけではなく、基礎となる土を囲む形で施設の外にも内にも石を積み上げました。これは石垣ではなく石壁になり、国内でこのような築城方式を採っているのは観音寺城以外では沖縄でしかみられないそうです。
そんな意味でも観音寺城は他で見れない部分があるそうです。
この次は、伝平井屋敷です。平井氏は六角氏の重臣で、平井定武という人物の娘は浅井長政に嫁いだこともありました。つまり浅井氏は六角氏の家臣の娘辺りがつりあいのとれた身分であると公言されていたのです。
織田信長も決して身分が高い家ではありませんので、こののちに信長の妹のお市が浅井長政に嫁ぐのも身分的な問題はなかったそうです。
ここから、伝池田屋敷に向かって進みます。
その間には、まるで分譲住宅のようなせまい区画に道に面した門という家臣屋敷の区画もあります。
伝池田屋敷はとても広い空間です。とても一人の家臣に与えられた場所とは思えないくらいです。
そしてここも石壁に囲まれています。
外側の石には、手を加えた矢立の跡がはっきりわかる場所があります。
観音寺城には矢立があるのに、安土城からは見つかっていないそうです。それは石工が違った事をしめす理由にもなるのですが、観音寺城の石をこれほど巧みに積みあげた石工を安土築城に参加させなかったのはいかなる訳なのか?
戦国史の裏を読み解く問題があるのかもしれませんよ。
見学の最中に、先生に観音寺騒動で重臣たちが屋敷を焼いた跡が出ているのかを質問してみたのですが、未発掘の為にわからないそうです。でも一か所焼けた跡が出た場所があったそうです。
今はその場所は埋まっているそうですが、この石垣の下に確実に焼けた場所があったことが確認されているのだとか…
ここで、観音寺城の見学が終わり、山を下りました。
そして麓にある教林坊を訪れました。
本堂で説明を聞きます。
ここのお庭は小堀遠州の作庭した庭なのだそうです。
聖徳太子が説法をされたという岩もあります。
その岩の足元に観音様が祀られています。
また、室町時代に作られたお庭も観ることができます。江戸と室町のお庭の共有でもあるのです。
水の音を甕の中に反響させて琴のように聞こえるという水琴甕の音色も、心静かに聴いてみると洗われた気持ちになりました。
らんまるくんも待っていてくれて、ほのぼのとしましたよ。
こうして、観音正寺を登り、観音寺城を巡り教林坊までを散策したほんまもんツアーは無事に終了しました。
散策中は天気に恵まれ、終了し日が落ちてから雨が降りました。
晴男の中井先生の力と、参加者全員の想いが天気すら動かしたようなイベントでした。