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郡山城外堀ウォーク

2020-12-06 | 日記
  12月6日(日)
コロナ禍で開催されるかどうか心配していた「郡山再発見ウォーク」は、参加人数62人、5班に分かれて午前9時元気よくスタートした。
一度は歩いてみたかった郡山城の外堀一周、今日はからりと晴れてウォーキングには絶好の日和であった。
本日のコースは外堀北半周コースと言うことで、JR郡山駅~広島池~小川町浦池~尼ヶ池~近鉄郡山駅であった。

豊臣秀長、秀保の後に五奉行の一人であった増田長盛(ましたながもり)が入城(1595年)して造られた全長5.5kmの外堀は、400年以上経て今や所々にその痕跡が残るばかりであるが、確実に把握できるので歴史的遺産となっている。
下段左端の画像は江戸安政(1854~1860)の「安政年間 和州郡山藩家中図」である。内堀・中堀・外堀で囲まれた郡山城下の町家と武家屋敷の位置が分かる。武家屋敷には住んでいるいる武士の名前が書かれている。

      (画像はクリックすると拡大する)

①JR郡山駅→②外堀緑地公園(平成9年)→③大日本紡績郡山工場跡(明治26年~昭和39年)→④宮本上池(城廻線街路にする工事中)→⑤高付上池(外堀の内側に築かれた土塁や赤焼・真焼の常滑焼土管を繋いだ排水施設が発見された)→⑥九条大路跡(平城京の南端、羅城門跡へ続く)→⑦鍛冶町大門跡(参勤交代の折、殿様をお迎え、お見送りした)

            

→⑧広島下池、上池(秋篠川の流れを変えて外堀に利用、お土居の松)→⑨広島浅池→⑩小川町裏池
             
  
→⑪お助け地蔵(北向き地蔵)→⑫正願寺上池(西側には土居の竹藪が残っている)→⑬代官池(代官町の由来:本多政勝が代官の武家屋敷を13軒増設して住まわせた)

         

→⑭鴫ケ池(シギガイケ ため池の半分を掘に利用、地蔵堂が在る)→⑮番鐘池(ため池の半分を掘に利用、現在は住宅地)→⑯尼ケ池下(番鐘池と尼ケ池を結ぶ細長い堀)→⑰尼ケ池(秀長が大織冠の社を遷す際に掘り除いた跡)→⑱蛇ケ池尻(竹藪が残る)→⑲蛇ケ池跡(現在は宅地化) 
                 
  
本日の堀めぐりはココ迄、数々の新しい発見にワクワクしながら歩いた3時間であった。
特に心に残ったのは堀が城廻線街路になる工事中を見た事、番鐘池から尼ケ池下まで続く広大な金魚池を見た事、そして水鳥が遊ぶ尼ケ池は1588年秀長が大織冠の社を談山神社から遷す際に地形の用として土を取り除いて出来た跡だと聞いた事。

大織冠の社とは豊臣秀長が多武峰談山神社(たんざんじんじゃ)から勧請(かんじょう)し、大織冠鎌足神社を大和郡山城の鎮守社としたもの。このとき、談山神社の大織冠御影もこの社に移されたが談山神社衆徒より帰山運動が起こり、2年後の天正18年秀長が病に倒れたのは大織冠遷座の祟りとされたことから、秀吉が談山神社に戻したという。
蛇足ながら藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が天智天皇(大化の改新前:中大兄皇子)から与えられた最上位の冠位でもある大織冠は郡山城の西、大きな楠(樹齢500年)がある辺りの地名(大職冠)として残っている。
蛇ケ池尻跡の近くに在るらしい大和郡山市の現在の大職冠鎌足神社を訪ねてみたくなったなぁ。
   
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帰り、途中下車して南部公民館に立ち寄り、お誘いを受けた催し「12月こども食堂 クリスマス チャリティーパーティ」を覗かせてもらった。
最近よく耳にする「こども食堂」と子供達と一緒の「クリスマスパーティー」に興味があったのである。遊びのゲームは大学生らのお手伝いで会場の子供達は大喜び、大人達も硬い頭で一生懸命考えて夢中になっていた。

         色んな企業、団体、個人からの寄付による米や肉や野菜etc.でボランティアの方々が作られたカレーライスはとても美味しかった。お腹いっぱいにさせてもらって嬉しいやら申し訳ないやら、無駄を省いて「こども食堂」に届けられる物を探そうと思った。
ありがとうございました。

入館時の手指消毒、マスク着用は勿論、個々に三密を避け食事中もフェイスシールド着用で感染予防対策はきっちりと行われていた。