古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

立岩遺跡・飯塚市歴史資料館(北九州実地踏査ツアー No.14)

2018年01月05日 | 実地踏査・古代史旅
うどんの松田屋を出て車で10分ほどで飯塚市歴史資料館に到着。立岩遺跡の出土品を始め、飯塚市の古代から近世までの史料を展示する資料館であるが、何といっても甕棺の展示は圧倒的な迫力があった。

資料館の入り口。


駐車場わきに移築されたカクメ石古墳の石室。カクメ石古墳は資料館近くにあった円墳。

このほか、資料館の周囲には石棺の天井石など地元で出土した遺物が並べられていた。

立岩遺跡出土品収蔵展示室入り口。


立岩遺跡というのは飯塚市の立岩丘陵上にある弥生時代の遺跡群を総称した呼称である。昭和8(1933)年に市営グランド造成工事中に発見された(立岩運動場遺跡)。昭和38(1963)年から昭和40(1965)年にかけては遺跡群の中心とされる堀田遺跡の調査が行われ、前漢鏡10面をはじめとする多くの副葬品を有する43基の甕棺墓が発見された。

特に10号甕棺には前漢式銅鏡6面、細形銅矛1本、鉄剣1本が副葬され、この地域を支配していた王墓と考えられる。ゴホウラ貝の腕輪を着けた男性の遺体も一見の価値あり。ゴホウラ貝は琉球でしか採れないため、この時代に立岩と琉球が交易で繋がっていた証である。

ゴホウラ貝で作られた腕輪。


腕輪をつけたまま埋葬された男性。レプリカです。



立岩は上質の石包丁産生地で、遺跡周囲から笠置山の輝緑凝灰岩を材料にした未完成の石包丁が多数出土している。立岩の石包丁は福岡県内をはじめ佐賀県や大分県まで広く分布しており、これがこの国の財源の基盤となったと考えられる。

発掘された石包丁。


立岩産石包丁の出土分布。


大きな甕棺の展示は来場者を圧倒する。










ツアー初日から各遺跡でいやと言うほど甕棺を見てきたが、ずっと疑問だったことがある。甕棺はほとんどの場合、上下とも同じような大きさの甕を使っているのだが、遺体を収める下の甕をもう少し大きくして、蓋となる上の甕を小さくする、さらに言えば鍋蓋のようにすれば接合もしやすくなるし、遺体を収めやすく埋葬もしやすくなるだろう、と思っていた。そしてようやくこの立岩遺跡でそんな甕棺に出会った。しかし、この立岩でもそういう甕棺は決して一般的ではなかった。甕の重さが問題なのだろうか。

資料館を出て車で数分、村の中の狭い道を通って坂道を登っていったところに立岩堀田遺跡がある。

この階段の上。


丘の上に立つ碑。


説明板。


私はこの立岩遺跡を魏志倭人伝に記された不弥国と考えている。その理由は第一部の「不弥国の位置」に書いたのでご覧いただきたい。そして、これで末盧国、伊都国、奴国、不弥国と魏志倭人伝に従って邪馬台国につながる北九州の国々を順に訪ねてきたことなる。倭人伝にはこの不弥国の次に投馬国を経て邪馬台国へ至るルートが記される。不弥国から遠賀川を下って響灘へ出て日本海を東へ航行すると出雲に至る。ここが投馬国。さらに水路と陸路により邪馬台国に到着。そこは大和の纒向。これが私の考えです。

さて、次の訪問地は世界遺産に登録されたばかりの宗像大社。境内にある神宝館には宗像大社沖津宮のある沖ノ島で見つかった8万点にも及ぶ出土品の数々が展示され、これらは全て国宝に指定されている。この宗像大社訪問は佐々木さんの強い希望でもある。
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