昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。
専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。
まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。
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物部氏を妄想する⑧(壺形古墳の登場)
前稿において徐福伝承地と物部分布地が濃密に重なる地域において、甕棺墓という埋葬方法、壺形土器を用いた葬送儀礼、水銀朱を用いた埋葬施設や葬送儀礼などに神仙思想の痕跡が共通に認められることが確認できました。これは、徐福がもたらした神仙思想に基づく埋葬方法や葬送儀礼が行われた地域に物部(物部氏と呼ばれる前の各地の集団)が濃密に分布していたということです。「2.物部の由来」で考えたように、物部氏は祭祀を職掌とする氏族でしたが、その原点は徐福が各地で伝えた神仙思想に基づく祭祀を担ったことにあったのではないでしょうか。さらにそれが各地で共通にみられることから、物部氏は徐福一行の後裔氏族として常に情報交換を行いながら各地で神仙思想の布教とともに新しい祭祀を広めていったと考えることができないでしょうか。
「5.物部氏と神仙思想」で触れたように、弥生時代中期から後期にかけて、各地のクニでは強い王(首長)が出現し、その王のもとで首長霊祭祀や祖霊祭祀が執り行われるようになっていきました。徐福集団の後裔であった物部氏はこれに呼応するかのように神仙思想を広めた結果、各地の王は自らが不老不死の神仙になることを望みました。やがて王が亡くなると後継王は亡き先代王を神仙界へ送り出すための埋葬や葬送儀礼を執り行うことになりますが、その祭祀を取り仕切ったのが各地の物部氏だったのです。そしてこの祭祀は、強大な王がいた吉備では双方中円形墳丘墓、丹後では台状墓や方形貼石墓、出雲では四隅突出型墳丘墓といった独自の様式を持った墳丘墓を舞台に行われました。この各地で独自に築かれた墳丘墓を考案したのも物部氏だったのではないでしょうか。
さて、弥生時代に物部氏が始めた神仙思想による葬送儀礼や墳丘墓を舞台にした祭祀はその後、古墳時代に入って前方後円墳という新しい墳墓を舞台とする祭祀に発展していきます。前方後円形という形状の由来については、円形周溝墓や方形周溝墓が発展したもの、円墳と方墳が合体したもの、前方部は祭壇が発達したもの、あるいは参道が発達したもの、など様々な説がありますが、私は辰巳和弘氏などが説く壺の形を模したものという説に説得力を感じています。(詳しくは「前方後円墳の考察①〜⑯」をご覧ください。)
円形周溝墓原形説は初期の前方後円墳には周濠がないものが多いという矛盾があります。円墳方墳合体説では初期の前方後円墳の前方部がバチ形である、つまり方形ではなく台形であることの疑問が残ります。祭壇・参道発達説では祭壇や参道である前方部に埋葬施設があることの説明がつきません。このように各説とも決め手に欠いている状況ですが、壺形古墳説によればこれらの疑問がほぼ解消されるのです。神仙思想では壺の中に仙界が広がるとされます。亡き王を仙界に送り出して不老不死、不老長生を手に入れてもらおうと考えて、朱をまとった棺に納めて壺形の墳墓に埋葬したのです。上空から見なければ壺形であることが認識できないという意見もあるでしょうが、墳丘を壺形にするのは死者の遺体を壺に納めることが目的なので、その形を第三者に見せる必要はないのです。
そこで次は弥生時代終末期から古墳時代初期にあたる3世紀の築造と考えられる前方後円形の墳墓について、徐福伝承地と物部分布地が濃密に重なる5つの地域での状況を確認します。
続きはこちら→物部氏を妄想する⑧(壺形古墳の登場)
専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。
まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。
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物部氏を妄想する⑧(壺形古墳の登場)
前稿において徐福伝承地と物部分布地が濃密に重なる地域において、甕棺墓という埋葬方法、壺形土器を用いた葬送儀礼、水銀朱を用いた埋葬施設や葬送儀礼などに神仙思想の痕跡が共通に認められることが確認できました。これは、徐福がもたらした神仙思想に基づく埋葬方法や葬送儀礼が行われた地域に物部(物部氏と呼ばれる前の各地の集団)が濃密に分布していたということです。「2.物部の由来」で考えたように、物部氏は祭祀を職掌とする氏族でしたが、その原点は徐福が各地で伝えた神仙思想に基づく祭祀を担ったことにあったのではないでしょうか。さらにそれが各地で共通にみられることから、物部氏は徐福一行の後裔氏族として常に情報交換を行いながら各地で神仙思想の布教とともに新しい祭祀を広めていったと考えることができないでしょうか。
「5.物部氏と神仙思想」で触れたように、弥生時代中期から後期にかけて、各地のクニでは強い王(首長)が出現し、その王のもとで首長霊祭祀や祖霊祭祀が執り行われるようになっていきました。徐福集団の後裔であった物部氏はこれに呼応するかのように神仙思想を広めた結果、各地の王は自らが不老不死の神仙になることを望みました。やがて王が亡くなると後継王は亡き先代王を神仙界へ送り出すための埋葬や葬送儀礼を執り行うことになりますが、その祭祀を取り仕切ったのが各地の物部氏だったのです。そしてこの祭祀は、強大な王がいた吉備では双方中円形墳丘墓、丹後では台状墓や方形貼石墓、出雲では四隅突出型墳丘墓といった独自の様式を持った墳丘墓を舞台に行われました。この各地で独自に築かれた墳丘墓を考案したのも物部氏だったのではないでしょうか。
さて、弥生時代に物部氏が始めた神仙思想による葬送儀礼や墳丘墓を舞台にした祭祀はその後、古墳時代に入って前方後円墳という新しい墳墓を舞台とする祭祀に発展していきます。前方後円形という形状の由来については、円形周溝墓や方形周溝墓が発展したもの、円墳と方墳が合体したもの、前方部は祭壇が発達したもの、あるいは参道が発達したもの、など様々な説がありますが、私は辰巳和弘氏などが説く壺の形を模したものという説に説得力を感じています。(詳しくは「前方後円墳の考察①〜⑯」をご覧ください。)
円形周溝墓原形説は初期の前方後円墳には周濠がないものが多いという矛盾があります。円墳方墳合体説では初期の前方後円墳の前方部がバチ形である、つまり方形ではなく台形であることの疑問が残ります。祭壇・参道発達説では祭壇や参道である前方部に埋葬施設があることの説明がつきません。このように各説とも決め手に欠いている状況ですが、壺形古墳説によればこれらの疑問がほぼ解消されるのです。神仙思想では壺の中に仙界が広がるとされます。亡き王を仙界に送り出して不老不死、不老長生を手に入れてもらおうと考えて、朱をまとった棺に納めて壺形の墳墓に埋葬したのです。上空から見なければ壺形であることが認識できないという意見もあるでしょうが、墳丘を壺形にするのは死者の遺体を壺に納めることが目的なので、その形を第三者に見せる必要はないのです。
そこで次は弥生時代終末期から古墳時代初期にあたる3世紀の築造と考えられる前方後円形の墳墓について、徐福伝承地と物部分布地が濃密に重なる5つの地域での状況を確認します。
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