しばらく間があいてしまったが「饒速日命」の続きです。まずは前回のおさらいから。
・饒速日命は北九州の不弥国の王であり、隣の奴国からの攻勢に耐えかねて不弥国を脱出した
・その後、丹後から河内を経由して大和の唐古・鍵に移ってきた
・饒速日命の後裔が冬至の日に太陽が昇る三輪山を神奈備として祖先神である大物主神を祀るようになった
・崇神天皇のときに大物主神を祀った大田田根子は河内を拠点とする物部一族であった
・物部氏は饒速日命の子孫であり、その物部氏が祀る神は大物主神であった
前回は明示的に表現しなかったが以上を整理すると「饒速日命=大物主神=物部氏の祖先神」ということになる。書紀によると、饒速日命は天磐船に乗って飛びまわり、空から大和を眺めて「虚空見つ日本の国」とつぶやいて天降り、大和を治める王となった。葛城に拠点を設けた神武天皇、纏向に拠点を設けた崇神天皇のいずれにも先駆けて大和の王となったのが饒速日命、すなわち物部氏である。ただし、古事記における饒速日命(邇芸速日命)は神武のあとを追って天降ったことになっているが、これは創作であろう。
飛鳥時代に蘇我氏との争いに敗れたあと、物部本宗家を継いだのは石上麻呂である。彼は壬申の乱の際に敗れた大友皇子についたことで勢力を落とすことになったが、その後に再び盛り返し、大納言、右大臣、左大臣を歴任した。しかし710年の平城京遷都の際、藤原不比等の策略によって旧都である藤原京の留守役に任じられ、それ以降、物部氏は衰退の一途をたどることになる。このように記紀編纂時にはすでに没落していた物部氏を立てる必要はないはずだが、正史である書紀があえて物部氏が神武よりも先に大和に入ったと記しているのは、それが消せない事実として周知されていたからと考えられるので、古事記よりも書紀の方に信憑性がある。
そして神武天皇は東征の最終決戦で饒速日命に勝利し、この一族(物部氏)を政権に取り込んだ。記紀共にその後の饒速日命あるいは子である可美真手命について触れることはないが、先代旧事本紀では饒速日命は神武と戦う以前に亡くなったことになっている。いずれにしても饒速日命は死後、後裔の物部氏によって祖先神大物主神として三輪山に祀られるようになったのだ。あるいは大物主神を祀ったのは、制圧した敵方の祟りを恐れた神武王朝であったのかもしれない。
書紀によると、国造りの終盤に出雲にやってきた大己貴神が「葦原中国は元々荒れ果てていたが私によって従わないものがいなくなった。私以外にこの国を治める者がいようか」と言葉を発したときに、神々しい光が海を照らしてやって来て「もし私がいなければあなたはこの国を平定できなかっただろう」と告げた。この光は大己貴神の幸魂奇魂であり、三輪山(三諸山)に祀られる大三輪神だという。また、古事記では少彦名命(小名毘古那神)が常世国へ去ったあと「私一人でどうやってこの国を造ればいいのだろう。誰か手伝ってくれないだろうか」と大己貴神(大国主神)が言ったとき、海からやってきた光る神が「私を丁重に祀れば一緒に国を造ってあげよう」と応えて「私の魂を大和を取り囲む山々の東の山に祀りなさい」と告げ、この光る神が御諸山の神であるとなっている。
三輪山をご神体として祀る大神神社の公式サイトによると、頂上の磐座に大物主大神、中腹の磐座に大己貴神、麓の磐座に少彦名神が鎮まる、とある。中腹の磐座に大己貴神が祀られているのはこの記紀の記述が元になっていると考えられる。麓の磐座の少彦名命も同様だ。つまり、記紀以前は山頂の磐座に大物主神が祀られるのみであった。したがって、書紀にある大三輪神とは大物主神と考えて問題ないだろう。つまり、海上を照らしながら出雲の浜辺にやってきて三輪山に祀られたのが大三輪神、すなわち大物主神であるが、記紀神話において最も早く大和に入った神が大物主神(大己貴神ではない)であるということになる。これは饒速日命が神武よりも先に大和に天降ったことと重なり、このことからも饒速日命=大物主神ということが言えると思う。
さらに、その大物主神(光る神)が海の向こうから出雲にやってきたとなっていることから、この神は元から出雲にいたわけではなく、海を渡ってやってきたのだ。これは饒速日命が北九州を脱して日本海を航行してきたことを表しているのではないだろうか。先代旧事本紀は饒速日命が高天原から丹後に天降り、河内を経て大和に入ったとある。北九州から丹後へ移る途中で出雲に立ち寄ったのか、それとも丹後に着いたことを記紀は出雲であることにしたのか。魏志倭人伝は邪馬台国までの行程として不弥国のつぎに投馬国を記す。この間、20日間の航海である。私は不弥国を北九州の遠賀川流域、立岩遺跡を中心にした地域に、投馬国を出雲に比定しており、このことから考えると、不弥国を出た饒速日命は次の投馬国(出雲)に立ち寄った可能性が高いと思う。記紀はこの事実を持って饒速日命(大物主神)を出雲の神である大己貴神と一体化させたのではないだろうか。
書紀の第八段一書(第六)では三輪山に祀られた大三輪神の子として甘茂君、大三輪君、姫蹈鞴五十鈴姫命をあげる。このことから、賀茂氏(鴨氏)、大三輪氏は物部氏の系譜にあることがわかる。なお、この賀茂氏は大田田根子の孫である大鴨積を始祖とする三輪氏に属する氏族のことで、神武東征において八咫烏に化身して神武天皇を導いた賀茂建角身命を始祖とする賀茂氏とは別の氏族とされている。また、崇神天皇紀にも大物主神の子である大田田根子は三輪君の祖であることが記され、古事記においても意富多多泥古命(大田田根子)は神君(大神氏)、鴨君(賀茂氏)の祖とされていることからも、大三輪氏や賀茂氏は物部氏から分かれて三輪山の神事に関わりのある氏族になったと言えよう。
さらに、姫蹈鞴五十鈴姫命はその後に神武の妻となっていることから物部氏が天皇家に后を出したことがわかる。后を出すことによって神武王朝に恭順の意思を示すとともに、外戚として勢力を確保し、その後の発展につながった。書紀はその後の物部氏の動きとして、欝色謎命が孝元天皇の后となって開化天皇を産み、伊香色謎命は開化天皇の后となって崇神天皇を産んだ、と記す。また、河内の青玉繋(あおたまかけ)の娘であることから物部系と考えられる埴安媛もまた孝元天皇の妃となっている。このように物部氏は神武王朝に対して后妃を出すことで勢力を強めていった。
また、崇神天皇の時には物部連の祖先で開化天皇の叔父にあたる伊香色雄命が神班物者(かみのものあかつひと)に任じられ、物部の民に対して八十平瓮で神に奉るものを作らせた。いずれも物部氏が神事を司る氏族であったことがよくわかる話である。
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・饒速日命は北九州の不弥国の王であり、隣の奴国からの攻勢に耐えかねて不弥国を脱出した
・その後、丹後から河内を経由して大和の唐古・鍵に移ってきた
・饒速日命の後裔が冬至の日に太陽が昇る三輪山を神奈備として祖先神である大物主神を祀るようになった
・崇神天皇のときに大物主神を祀った大田田根子は河内を拠点とする物部一族であった
・物部氏は饒速日命の子孫であり、その物部氏が祀る神は大物主神であった
前回は明示的に表現しなかったが以上を整理すると「饒速日命=大物主神=物部氏の祖先神」ということになる。書紀によると、饒速日命は天磐船に乗って飛びまわり、空から大和を眺めて「虚空見つ日本の国」とつぶやいて天降り、大和を治める王となった。葛城に拠点を設けた神武天皇、纏向に拠点を設けた崇神天皇のいずれにも先駆けて大和の王となったのが饒速日命、すなわち物部氏である。ただし、古事記における饒速日命(邇芸速日命)は神武のあとを追って天降ったことになっているが、これは創作であろう。
飛鳥時代に蘇我氏との争いに敗れたあと、物部本宗家を継いだのは石上麻呂である。彼は壬申の乱の際に敗れた大友皇子についたことで勢力を落とすことになったが、その後に再び盛り返し、大納言、右大臣、左大臣を歴任した。しかし710年の平城京遷都の際、藤原不比等の策略によって旧都である藤原京の留守役に任じられ、それ以降、物部氏は衰退の一途をたどることになる。このように記紀編纂時にはすでに没落していた物部氏を立てる必要はないはずだが、正史である書紀があえて物部氏が神武よりも先に大和に入ったと記しているのは、それが消せない事実として周知されていたからと考えられるので、古事記よりも書紀の方に信憑性がある。
そして神武天皇は東征の最終決戦で饒速日命に勝利し、この一族(物部氏)を政権に取り込んだ。記紀共にその後の饒速日命あるいは子である可美真手命について触れることはないが、先代旧事本紀では饒速日命は神武と戦う以前に亡くなったことになっている。いずれにしても饒速日命は死後、後裔の物部氏によって祖先神大物主神として三輪山に祀られるようになったのだ。あるいは大物主神を祀ったのは、制圧した敵方の祟りを恐れた神武王朝であったのかもしれない。
書紀によると、国造りの終盤に出雲にやってきた大己貴神が「葦原中国は元々荒れ果てていたが私によって従わないものがいなくなった。私以外にこの国を治める者がいようか」と言葉を発したときに、神々しい光が海を照らしてやって来て「もし私がいなければあなたはこの国を平定できなかっただろう」と告げた。この光は大己貴神の幸魂奇魂であり、三輪山(三諸山)に祀られる大三輪神だという。また、古事記では少彦名命(小名毘古那神)が常世国へ去ったあと「私一人でどうやってこの国を造ればいいのだろう。誰か手伝ってくれないだろうか」と大己貴神(大国主神)が言ったとき、海からやってきた光る神が「私を丁重に祀れば一緒に国を造ってあげよう」と応えて「私の魂を大和を取り囲む山々の東の山に祀りなさい」と告げ、この光る神が御諸山の神であるとなっている。
三輪山をご神体として祀る大神神社の公式サイトによると、頂上の磐座に大物主大神、中腹の磐座に大己貴神、麓の磐座に少彦名神が鎮まる、とある。中腹の磐座に大己貴神が祀られているのはこの記紀の記述が元になっていると考えられる。麓の磐座の少彦名命も同様だ。つまり、記紀以前は山頂の磐座に大物主神が祀られるのみであった。したがって、書紀にある大三輪神とは大物主神と考えて問題ないだろう。つまり、海上を照らしながら出雲の浜辺にやってきて三輪山に祀られたのが大三輪神、すなわち大物主神であるが、記紀神話において最も早く大和に入った神が大物主神(大己貴神ではない)であるということになる。これは饒速日命が神武よりも先に大和に天降ったことと重なり、このことからも饒速日命=大物主神ということが言えると思う。
さらに、その大物主神(光る神)が海の向こうから出雲にやってきたとなっていることから、この神は元から出雲にいたわけではなく、海を渡ってやってきたのだ。これは饒速日命が北九州を脱して日本海を航行してきたことを表しているのではないだろうか。先代旧事本紀は饒速日命が高天原から丹後に天降り、河内を経て大和に入ったとある。北九州から丹後へ移る途中で出雲に立ち寄ったのか、それとも丹後に着いたことを記紀は出雲であることにしたのか。魏志倭人伝は邪馬台国までの行程として不弥国のつぎに投馬国を記す。この間、20日間の航海である。私は不弥国を北九州の遠賀川流域、立岩遺跡を中心にした地域に、投馬国を出雲に比定しており、このことから考えると、不弥国を出た饒速日命は次の投馬国(出雲)に立ち寄った可能性が高いと思う。記紀はこの事実を持って饒速日命(大物主神)を出雲の神である大己貴神と一体化させたのではないだろうか。
書紀の第八段一書(第六)では三輪山に祀られた大三輪神の子として甘茂君、大三輪君、姫蹈鞴五十鈴姫命をあげる。このことから、賀茂氏(鴨氏)、大三輪氏は物部氏の系譜にあることがわかる。なお、この賀茂氏は大田田根子の孫である大鴨積を始祖とする三輪氏に属する氏族のことで、神武東征において八咫烏に化身して神武天皇を導いた賀茂建角身命を始祖とする賀茂氏とは別の氏族とされている。また、崇神天皇紀にも大物主神の子である大田田根子は三輪君の祖であることが記され、古事記においても意富多多泥古命(大田田根子)は神君(大神氏)、鴨君(賀茂氏)の祖とされていることからも、大三輪氏や賀茂氏は物部氏から分かれて三輪山の神事に関わりのある氏族になったと言えよう。
さらに、姫蹈鞴五十鈴姫命はその後に神武の妻となっていることから物部氏が天皇家に后を出したことがわかる。后を出すことによって神武王朝に恭順の意思を示すとともに、外戚として勢力を確保し、その後の発展につながった。書紀はその後の物部氏の動きとして、欝色謎命が孝元天皇の后となって開化天皇を産み、伊香色謎命は開化天皇の后となって崇神天皇を産んだ、と記す。また、河内の青玉繋(あおたまかけ)の娘であることから物部系と考えられる埴安媛もまた孝元天皇の妃となっている。このように物部氏は神武王朝に対して后妃を出すことで勢力を強めていった。
また、崇神天皇の時には物部連の祖先で開化天皇の叔父にあたる伊香色雄命が神班物者(かみのものあかつひと)に任じられ、物部の民に対して八十平瓮で神に奉るものを作らせた。いずれも物部氏が神事を司る氏族であったことがよくわかる話である。
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