まず、初代神武天皇から第3代安寧天皇までを整理してみた。
■神武天皇(初代)
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皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命は書紀では事代主神の娘となっている。事代主神は大国主神の子で国譲りの際に大国主に代わって承諾の意を伝えたとされるが、もともとは出雲ではなく葛城の神であり、一言主神と同一神として託宣を司った。后の名前に「蹈鞴(たたら)」を含んでいることから出雲のたたら製鉄を想起し、これによって神武が出雲から后を迎えたと考えられているが、事代主神が葛城の神であるので神武を出雲とつなげるのは妥当ではなかろう。むしろ神武が葛城にほど近い橿原で即位して葛城の娘を娶って鴨氏、あるいは後の葛城氏との関係を強化したと考えるのが自然である。
■綏靖天皇(第2代)
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皇后の五十鈴依媛命は事代主神の娘で、神武の后である媛蹈鞴五十鈴媛命の妹である。神武に続いて綏靖も事代主神である鴨氏から后を迎えた。葛城高丘宮は葛城一言主神社のすぐ近くにあり、鴨氏は外戚としてのみならず天皇の側近として仕えるようになっていたのであろう。
■安寧天皇(第3代)
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事代主神の孫である鴨王の娘を娶っており、ここでも先のふたりと同様に鴨氏から后を迎えている。三代続けて天皇家に后を送り込んだ鴨氏は外戚としての地位を盤石にした。天皇家も鴨氏の力を借りて葛城を拠点に大和での勢力を拡大していった。しかし、一書によると磯城県主の葉江の娘、川津媛が后であるとされ、自らの諡号である磯城津彦玉手看尊や異伝で子とされる磯城津彦命とともに磯城との関係も垣間見える。
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■神武天皇(初代)
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皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命は書紀では事代主神の娘となっている。事代主神は大国主神の子で国譲りの際に大国主に代わって承諾の意を伝えたとされるが、もともとは出雲ではなく葛城の神であり、一言主神と同一神として託宣を司った。后の名前に「蹈鞴(たたら)」を含んでいることから出雲のたたら製鉄を想起し、これによって神武が出雲から后を迎えたと考えられているが、事代主神が葛城の神であるので神武を出雲とつなげるのは妥当ではなかろう。むしろ神武が葛城にほど近い橿原で即位して葛城の娘を娶って鴨氏、あるいは後の葛城氏との関係を強化したと考えるのが自然である。
■綏靖天皇(第2代)
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皇后の五十鈴依媛命は事代主神の娘で、神武の后である媛蹈鞴五十鈴媛命の妹である。神武に続いて綏靖も事代主神である鴨氏から后を迎えた。葛城高丘宮は葛城一言主神社のすぐ近くにあり、鴨氏は外戚としてのみならず天皇の側近として仕えるようになっていたのであろう。
■安寧天皇(第3代)
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事代主神の孫である鴨王の娘を娶っており、ここでも先のふたりと同様に鴨氏から后を迎えている。三代続けて天皇家に后を送り込んだ鴨氏は外戚としての地位を盤石にした。天皇家も鴨氏の力を借りて葛城を拠点に大和での勢力を拡大していった。しかし、一書によると磯城県主の葉江の娘、川津媛が后であるとされ、自らの諡号である磯城津彦玉手看尊や異伝で子とされる磯城津彦命とともに磯城との関係も垣間見える。
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