前回は神仙思想のごくごく基本的なことに加えて、日本における徐福伝説について確認しました。今回は神仙思想と壺の関係について調べてみました。ここでは京都大学学術情報リポジトリに収録されている小南一郎氏の「壺型の宇宙」という論文が大いに参考になりました。氏は中国の数ある文献や遺物などを丁寧に取り上げて神仙思想や道教と壺の関係を論理的かつ明快に論じています。今回は氏の論文をもとに整理しようと思います。
神仙思想と壺が密接な関係にあることを端的に表している例として、晋の時代に葛洪が著した「神仙伝」巻5の壺公の話があります。
汝南の市場の役人に費長房という者がいました。費長房は、市場で得た利益を貧しい人々に分け与える薬売りが夜になると壺の中に跳び込むのを見ました。その薬売りはただ者ではないと思い、それ以降、ひたすら奉仕に勤め、壺の中へ連れて行ってもらいたいと願い続けたところ、ある日、壺の中へ行くことを許されました。薬売りに続いて壺の中に跳び込むと、そこは神仙たちの宮殿の世界が広がり、高殿や幾重もの門、渡り廊下や宮殿が立ち並び、左右に数十人の侍者が待っていました。その薬売りは実は仙人だったのです。費長房はその後、この仙人について修行を重ねて様々な神術を会得しました。
また、時代が下って北宋のときに書かれた「雲笈七籤(うんきゅうしちせん)」巻28の「雲臺治中録」にも次のように同様の話が書かれています。
施存という道士が五升ほどの大きさの壺をぶらさげておいて、夜はそこに入って寝ていたが、その壺の中は一つの天地をなし、この世界と同様に日月が備わっていました。
これらの説話から神仙世界や別世界を意味する「壺中之天」や「壺中日月」という語が生まれました。また、もともとはつながりのなかった神仙思想と壺が時代を経るにつれて深い関係になっていった状況を以下に確認します。
①「史記」封禅書(前漢時代)
斉の威王・宣王や燕の昭王など、多くの主君たちが人を遣わして不老不死の薬を求めた東海の三神山は「蓬莱」「方丈」「瀛洲」と記されていて、ここではまだ壺との関係は見いだせません。
②「史記」孝武本紀(前漢時代) 褚(ちょ)少孫による補記。
方士の助言で建てられた「建章宮」の池の中に浮かぶ海中の神山として「蓬莱」「方丈」「瀛洲」のほか4つ目として「壺梁」という山があると記されます。この記事は、中国の庭園造営のひとつの起源が神仙世界を模することにあったことを示唆する記事です。ここで初めて壺が登場しました。
③「列子」湯問篇(魏晋時代)
渤海の東方にある神山は本来「岱輿(たいよ)」「員嶠(いんきょう)」「方壺」「瀛洲」「蓬莱」の5つでしたが、その後「岱輿」と「員嶠」は北極に流れていって大海に沈んでしまった、と記されます。ここでは「史記」で「方丈」と記された神山が「方壺」となり、ひとつの山が壺に入れ替わっています。
3つだったはずの神山が5つになっているのは、後漢時代以降の五聯壺に見えるような配置の五神山の観念と古くからの三神山の観念が重ね合わせてできあがった話だろうとされます。
ちなみに「列子」は中国戦国時代の道家的思想家である列子が著したとされる書物ですが、実際のところは、その後数百年にわたって折々の人が「列子」的だと考えた言葉や説話をそのなかに取り込んで魏晋時代にできあがったものだろうとされています。
④「王子年拾遺記」(東晋時代)
三壺とは海中の三山のことで、第1を「方壺」といい「方丈」のこと、第2を「蓬壺」といい「蓬莱」のこと、第3を「瀛壺」といい「瀛洲」のこと、と記して、ここで三神山のすべてが壺の字を付けて呼ばれるようになります。
このように東海の三神山は時代を経るにつれて壺との関係が深くなります。小南氏は、壺形であることが神仙世界に属する存在であることを端的に象徴すると考える観念が次第に顕著に現れてきた、とされます
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神仙思想と壺が密接な関係にあることを端的に表している例として、晋の時代に葛洪が著した「神仙伝」巻5の壺公の話があります。
汝南の市場の役人に費長房という者がいました。費長房は、市場で得た利益を貧しい人々に分け与える薬売りが夜になると壺の中に跳び込むのを見ました。その薬売りはただ者ではないと思い、それ以降、ひたすら奉仕に勤め、壺の中へ連れて行ってもらいたいと願い続けたところ、ある日、壺の中へ行くことを許されました。薬売りに続いて壺の中に跳び込むと、そこは神仙たちの宮殿の世界が広がり、高殿や幾重もの門、渡り廊下や宮殿が立ち並び、左右に数十人の侍者が待っていました。その薬売りは実は仙人だったのです。費長房はその後、この仙人について修行を重ねて様々な神術を会得しました。
また、時代が下って北宋のときに書かれた「雲笈七籤(うんきゅうしちせん)」巻28の「雲臺治中録」にも次のように同様の話が書かれています。
施存という道士が五升ほどの大きさの壺をぶらさげておいて、夜はそこに入って寝ていたが、その壺の中は一つの天地をなし、この世界と同様に日月が備わっていました。
これらの説話から神仙世界や別世界を意味する「壺中之天」や「壺中日月」という語が生まれました。また、もともとはつながりのなかった神仙思想と壺が時代を経るにつれて深い関係になっていった状況を以下に確認します。
①「史記」封禅書(前漢時代)
斉の威王・宣王や燕の昭王など、多くの主君たちが人を遣わして不老不死の薬を求めた東海の三神山は「蓬莱」「方丈」「瀛洲」と記されていて、ここではまだ壺との関係は見いだせません。
②「史記」孝武本紀(前漢時代) 褚(ちょ)少孫による補記。
方士の助言で建てられた「建章宮」の池の中に浮かぶ海中の神山として「蓬莱」「方丈」「瀛洲」のほか4つ目として「壺梁」という山があると記されます。この記事は、中国の庭園造営のひとつの起源が神仙世界を模することにあったことを示唆する記事です。ここで初めて壺が登場しました。
③「列子」湯問篇(魏晋時代)
渤海の東方にある神山は本来「岱輿(たいよ)」「員嶠(いんきょう)」「方壺」「瀛洲」「蓬莱」の5つでしたが、その後「岱輿」と「員嶠」は北極に流れていって大海に沈んでしまった、と記されます。ここでは「史記」で「方丈」と記された神山が「方壺」となり、ひとつの山が壺に入れ替わっています。
3つだったはずの神山が5つになっているのは、後漢時代以降の五聯壺に見えるような配置の五神山の観念と古くからの三神山の観念が重ね合わせてできあがった話だろうとされます。
ちなみに「列子」は中国戦国時代の道家的思想家である列子が著したとされる書物ですが、実際のところは、その後数百年にわたって折々の人が「列子」的だと考えた言葉や説話をそのなかに取り込んで魏晋時代にできあがったものだろうとされています。
④「王子年拾遺記」(東晋時代)
三壺とは海中の三山のことで、第1を「方壺」といい「方丈」のこと、第2を「蓬壺」といい「蓬莱」のこと、第3を「瀛壺」といい「瀛洲」のこと、と記して、ここで三神山のすべてが壺の字を付けて呼ばれるようになります。
このように東海の三神山は時代を経るにつれて壺との関係が深くなります。小南氏は、壺形であることが神仙世界に属する存在であることを端的に象徴すると考える観念が次第に顕著に現れてきた、とされます
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