ここまで、双円墳の金山古墳、双方墳の二子塚古墳を見てきました。続いては二子塚山古墳のすぐ近くにある山田高塚古墳(推古天皇・竹田皇子合葬陵)です。宮内庁は「磯長山田陵」および「竹田皇子墓」として治定しています。
推古天皇は第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣の蘇我稲目の娘である堅塩媛です。夫の第30代敏達天皇は異母兄でもあり、第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟で、蘇我馬子は母方の叔父。蘇我氏および蘇我系天皇に囲まれた中で第33代天皇として即位しました。推古天皇については別の機会に勉強したいと思っています。
墳丘は3段築成、東西59メートル・南北55メートルの方墳です。日本書紀には、推古天皇は推古天皇36年(628年)に崩御、同年に遺詔により「竹田皇子之陵」に葬ったとありますが、この陵の所在地は書かれていません。一方、古事記では「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」へ改葬した旨の記述がありますが、竹田皇子と合葬したとは書かれていません。横穴式石室の内部に石棺が2基あるとする資料も残っているようで、推古天皇と竹田皇子の石棺と考えられています
御陵をぐるりと周回する小径があったので方墳の四辺を歩きました。
二子塚古墳がすぐそこに見えます。
この推古天皇陵を含む天皇陵4基(敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵)と叡福寺にある聖徳太子墓など約30基からなる古墳群が磯長谷古墳群と呼ばれます。前方後円墳の造営が終了した後の6世紀中ごろから7世紀前半、古墳時代終末期から飛鳥時代初期のものと見られています。古墳群がある磯長谷は皇族の陵墓が集中していることから「王陵の谷」と呼ばれています。
さて次は推古陵から東へ5分、小野妹子の墓に行きました。
太子町のサイトから転載です。
科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚があります。妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された人物です。妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、華道家元 池坊の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されています。
なるほど、それで池坊家による碑が建てられていたのか。
推古天皇や聖徳太子のもとで外交に尽力したことから、その二人が眠るこの王陵の谷に葬られることになったのでしょう。お墓の向こうは小さな公園のようになっていて、そこからの眺めが結構素晴らしいものでした。右側にPLの塔が見えます。この塔を見ると信者でなくてもなぜか厳かな気持ちになるのは不思議です。
ついでと言っては失礼ですが、麓の科長神社を参拝してきました。
そして次は再び西に下って春日向山古墳(用明天皇河内磯長陵)に向かいました。GoogleMapを頼りにして近づこうとしたのが失敗で、ウロウロと無駄な時間と労力を使った挙句、ようやく拝礼所に到着できました。
3段築成の方墳で大きさは東西65メートル、南北60メートルとなります。天皇陵としては最初の方墳になるらしいです。用明天皇は欽明天皇の第4皇子で第31代の天皇です。母は蘇我稲目の娘の堅塩媛で同母妹に推古天皇がいます。
ここでも御陵を一周して写真を撮って車に戻りました。そろそろ陽が傾いてきたのでこの日は次の太子西山古墳(敏達天皇河内磯長中尾陵)で最後になります。車で3分ほどです。
ここまで蘇我氏系の天皇陵が方墳であることを実感してきたのですが、この第30代敏達天皇の陵は全長が113メートルもある前方後円墳なのです。というのも、敏達天皇は継体天皇嫡男である欽明天皇と仁賢天皇皇女である手白香皇女の間にできた子であるため、まだ蘇我氏の血が混じっていないのです。しかし、その後に欽明天皇が蘇我稲目の娘である堅塩姫や小姉君を妃としたことから蘇我氏が外戚として権力を持つことになりました。このあたりはいずれ詳しく勉強したいと思います。
拝礼所入口の前に車を停めて歩きます。
推古陵や用明陵と違って敏達陵は山の中にあるため、その存在を知る人はあまりいないのではないでしょうか。拝礼所はひっそりと佇んでいました。敏達の母である石姫皇女(いしひめのひめみこ)が合葬されていることを後で知りました。
時刻は17時少し前です。あと1時間くらいあれば聖徳太子の磯長墓を訪ねて叡福寺に行こうと思いましたが、次の機会にまわすことにしました。今年は聖徳太子が亡くなって1400年の御恩忌なので、時間のある時にゆっくりと参拝します。
さて、たくさんの古墳を見て回って長い1日となりましたが、地元に居ながらにしてようやく機会を作ることができ、満足感でいっぱいです。叡福寺をはじめ、まだまだ見どころがあるので、今後の楽しみにしたいと思います。
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
推古天皇は第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣の蘇我稲目の娘である堅塩媛です。夫の第30代敏達天皇は異母兄でもあり、第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟で、蘇我馬子は母方の叔父。蘇我氏および蘇我系天皇に囲まれた中で第33代天皇として即位しました。推古天皇については別の機会に勉強したいと思っています。
墳丘は3段築成、東西59メートル・南北55メートルの方墳です。日本書紀には、推古天皇は推古天皇36年(628年)に崩御、同年に遺詔により「竹田皇子之陵」に葬ったとありますが、この陵の所在地は書かれていません。一方、古事記では「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」へ改葬した旨の記述がありますが、竹田皇子と合葬したとは書かれていません。横穴式石室の内部に石棺が2基あるとする資料も残っているようで、推古天皇と竹田皇子の石棺と考えられています
御陵をぐるりと周回する小径があったので方墳の四辺を歩きました。
二子塚古墳がすぐそこに見えます。
この推古天皇陵を含む天皇陵4基(敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵)と叡福寺にある聖徳太子墓など約30基からなる古墳群が磯長谷古墳群と呼ばれます。前方後円墳の造営が終了した後の6世紀中ごろから7世紀前半、古墳時代終末期から飛鳥時代初期のものと見られています。古墳群がある磯長谷は皇族の陵墓が集中していることから「王陵の谷」と呼ばれています。
さて次は推古陵から東へ5分、小野妹子の墓に行きました。
太子町のサイトから転載です。
科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚があります。妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された人物です。妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、華道家元 池坊の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されています。
なるほど、それで池坊家による碑が建てられていたのか。
推古天皇や聖徳太子のもとで外交に尽力したことから、その二人が眠るこの王陵の谷に葬られることになったのでしょう。お墓の向こうは小さな公園のようになっていて、そこからの眺めが結構素晴らしいものでした。右側にPLの塔が見えます。この塔を見ると信者でなくてもなぜか厳かな気持ちになるのは不思議です。
ついでと言っては失礼ですが、麓の科長神社を参拝してきました。
そして次は再び西に下って春日向山古墳(用明天皇河内磯長陵)に向かいました。GoogleMapを頼りにして近づこうとしたのが失敗で、ウロウロと無駄な時間と労力を使った挙句、ようやく拝礼所に到着できました。
3段築成の方墳で大きさは東西65メートル、南北60メートルとなります。天皇陵としては最初の方墳になるらしいです。用明天皇は欽明天皇の第4皇子で第31代の天皇です。母は蘇我稲目の娘の堅塩媛で同母妹に推古天皇がいます。
ここでも御陵を一周して写真を撮って車に戻りました。そろそろ陽が傾いてきたのでこの日は次の太子西山古墳(敏達天皇河内磯長中尾陵)で最後になります。車で3分ほどです。
ここまで蘇我氏系の天皇陵が方墳であることを実感してきたのですが、この第30代敏達天皇の陵は全長が113メートルもある前方後円墳なのです。というのも、敏達天皇は継体天皇嫡男である欽明天皇と仁賢天皇皇女である手白香皇女の間にできた子であるため、まだ蘇我氏の血が混じっていないのです。しかし、その後に欽明天皇が蘇我稲目の娘である堅塩姫や小姉君を妃としたことから蘇我氏が外戚として権力を持つことになりました。このあたりはいずれ詳しく勉強したいと思います。
拝礼所入口の前に車を停めて歩きます。
推古陵や用明陵と違って敏達陵は山の中にあるため、その存在を知る人はあまりいないのではないでしょうか。拝礼所はひっそりと佇んでいました。敏達の母である石姫皇女(いしひめのひめみこ)が合葬されていることを後で知りました。
時刻は17時少し前です。あと1時間くらいあれば聖徳太子の磯長墓を訪ねて叡福寺に行こうと思いましたが、次の機会にまわすことにしました。今年は聖徳太子が亡くなって1400年の御恩忌なので、時間のある時にゆっくりと参拝します。
さて、たくさんの古墳を見て回って長い1日となりましたが、地元に居ながらにしてようやく機会を作ることができ、満足感でいっぱいです。叡福寺をはじめ、まだまだ見どころがあるので、今後の楽しみにしたいと思います。
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