最後に、第7代の孝霊天皇から第9代の開化天皇までを見てみる。
■孝霊天皇(第7代)
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神武に仕えた饒速日命が建国した唐古・鍵に近い黒田に宮を置いたことは、いよいよ敵対する邪馬台国のすぐ近くに進出して拠点を設けたことを表していると思われる。また、吉備と関係する二人の子がいる。隼人系海洋族である吉備との関係強化に動いたと考えられ、畿内の外へ出て勢力基盤を整えようとしたのだろう。彦五十狭芹彦命は後に崇神天皇の命で四道将軍の一人として吉備へ派遣されることになるが、何らかの理由で崇神王朝に取り込まれてしまったか、あるいは神武王朝と崇神王朝を無理なくつなげる作為のために本来は崇神王朝に属する人物を神武王朝に入れたのだろうか。
また、妃である倭国香媛は古事記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命となっているが、「阿礼」は神霊の出現の縁となるものを指し、綾絹や鈴で飾られるもので、巫女であることを示唆する。この倭国香媛が産んだ倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼であるとも言われている。
■孝元天皇(第8代)
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穂積氏が后を、物部氏が妃を出しており、両氏の勢力拡大のきっかけがこのときに作られた。また、埴安媛が妃になっていることは河内地域へ勢力を拡大したことを示す。さらに書紀には大彦命が崇神天皇のときに四道将軍として北陸に派遣されたことが記されている。埼玉県行田市のさきたま古墳群にある稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた意富比コ(「コ」は「つちへんに危」)は大彦命を示すと言われており、実在の可能性が高いと考えられている。彼も彦五十狭芹彦命と同様に系譜を作為した結果としてここに登場することになったのだろうか。
また、彦太忍信命は武内宿禰の祖父であり葛城氏、蘇我氏などの有力豪族の遠祖である。武埴安彦命は崇神の時代に謀反により殺害されている。こうして見ると、孝元天皇紀としての事績は記されていないものの、後の事象につながる人物が多く登場しており、事実に基づいた記載である可能性が高いと考えることができる。また、この時期に政権基盤が整いつつあったと考えることもできそうだ。
■開化天皇(第9代)
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饒速日命の故郷である丹波から妃を迎えており、これもまた畿外における勢力基盤強化の一環である。また、奈良盆地北部(現在の奈良市)に宮をおいたということは奈良盆地一帯を勢力下においたことを示唆するとともに、木津川から淀川、あるいは琵琶湖へ通じる水運を掌握したことの表れとも考えられる。孝元・孝霊・開化の3人はいずれも諡号に日本根子が含まれているが日本根子は「大和の中心」の意であり、この開化天皇の時代に邪馬台国、すなわち崇神王朝を上回る勢力を持つに至ったのではないだろうか。
以上、初代の神武天皇とそれに続く欠史八代の計9名の天皇について書紀に記載された内容を整理して概観した。次は宮や陵墓の場所、氏族との関係などを俯瞰してみたい。
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■孝霊天皇(第7代)
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神武に仕えた饒速日命が建国した唐古・鍵に近い黒田に宮を置いたことは、いよいよ敵対する邪馬台国のすぐ近くに進出して拠点を設けたことを表していると思われる。また、吉備と関係する二人の子がいる。隼人系海洋族である吉備との関係強化に動いたと考えられ、畿内の外へ出て勢力基盤を整えようとしたのだろう。彦五十狭芹彦命は後に崇神天皇の命で四道将軍の一人として吉備へ派遣されることになるが、何らかの理由で崇神王朝に取り込まれてしまったか、あるいは神武王朝と崇神王朝を無理なくつなげる作為のために本来は崇神王朝に属する人物を神武王朝に入れたのだろうか。
また、妃である倭国香媛は古事記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命となっているが、「阿礼」は神霊の出現の縁となるものを指し、綾絹や鈴で飾られるもので、巫女であることを示唆する。この倭国香媛が産んだ倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼であるとも言われている。
■孝元天皇(第8代)
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穂積氏が后を、物部氏が妃を出しており、両氏の勢力拡大のきっかけがこのときに作られた。また、埴安媛が妃になっていることは河内地域へ勢力を拡大したことを示す。さらに書紀には大彦命が崇神天皇のときに四道将軍として北陸に派遣されたことが記されている。埼玉県行田市のさきたま古墳群にある稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた意富比コ(「コ」は「つちへんに危」)は大彦命を示すと言われており、実在の可能性が高いと考えられている。彼も彦五十狭芹彦命と同様に系譜を作為した結果としてここに登場することになったのだろうか。
また、彦太忍信命は武内宿禰の祖父であり葛城氏、蘇我氏などの有力豪族の遠祖である。武埴安彦命は崇神の時代に謀反により殺害されている。こうして見ると、孝元天皇紀としての事績は記されていないものの、後の事象につながる人物が多く登場しており、事実に基づいた記載である可能性が高いと考えることができる。また、この時期に政権基盤が整いつつあったと考えることもできそうだ。
■開化天皇(第9代)
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饒速日命の故郷である丹波から妃を迎えており、これもまた畿外における勢力基盤強化の一環である。また、奈良盆地北部(現在の奈良市)に宮をおいたということは奈良盆地一帯を勢力下においたことを示唆するとともに、木津川から淀川、あるいは琵琶湖へ通じる水運を掌握したことの表れとも考えられる。孝元・孝霊・開化の3人はいずれも諡号に日本根子が含まれているが日本根子は「大和の中心」の意であり、この開化天皇の時代に邪馬台国、すなわち崇神王朝を上回る勢力を持つに至ったのではないだろうか。
以上、初代の神武天皇とそれに続く欠史八代の計9名の天皇について書紀に記載された内容を整理して概観した。次は宮や陵墓の場所、氏族との関係などを俯瞰してみたい。
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