2022年2月23日、神戸・淡路経由、四国への車中泊旅の途中で兵庫県淡路市にある五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡に立ち寄りました。五斗長とは、淡路北部を南北に連なる標高200メートルほどの津名丘陵の西側の斜面、瀬戸内海を見下ろす高台にある集落の名前で、正式な住所は淡路市黒谷といいます。
この遺跡は、2004年に淡路島を襲った巨大な台風23号による被害からの復旧の際に見つかった遺跡で、出土品などから弥生時代後期の鉄器製作にかかわる遺跡であることがわかりました。23棟の竪穴建物跡のうち、12棟において鉄器を作る作業を行った炉跡が見つかったほか、朝鮮半島製とみられる鉄斧や鉄鏃など100点を超える鉄器、石槌や金床石、砥石など多数の石製鍛冶工具類も出土しています。直径が10メートルを超える国内最大規模の鍛冶工房を営むなど、ひとつの遺跡で100年以上もの長期にわたって鉄器を作り続けた珍しい遺跡とされていますが、最盛期は2世紀後半で、卑弥呼が登場する頃には稼働を終えていたことがわかっています。
駐車場に車を停めてガイダンス施設に入ると、右手に出土物の展示コーナー、左手が「まるごキッチン」という小さなカフェ、右奥に会議室(研修室かな)があります。この会議室で遺跡の紹介ビデオを見るのですが、地元の津名高校の放送部が制作したビデオはなかなか見ごたえのある素晴らしいものでした。弥生時代に入手できる素材(細竹、蓮の茎、動物の皮など)を使って袋状のふいごを作り、炉に空気を送り込む実験がビデオで紹介されていました。
ビデオを見た後は展示コーナーを見学します。展示物はすべてレプリカで、解説パネルは簡潔でわかりやすい内容でしたが、とくに「鋳造鉄斧片」と書かれた遺物が気になりました。「鍛冶による再加工が困難とされている鋳造鉄斧片が何のために鍛冶工房に持ち込まれたのか、今後の検討課題です」と解説されていました。
この遺跡は鍛冶工房とされているので、朝鮮半島などから材料となる鉄素材を運び込んで、鍛冶炉で熱して石製の工具類を使って鍛造した、と考えられていますが、大きな鉄片は鍛造が難しいということです。この鋳造鉄斧片は本当に外部から持ち込まれたのでしょうか。この場所で鋳造したとは考えられないのでしょうか。
ガイダンス施設を反対側(北側)に出ると一面に遺跡が広がり、右手に津名丘陵、左手に瀬戸内海が見えます。何カ所かに竪穴建物が復元されていますが、まず遺跡全体の立地や構造を考えてみました。
斜面の一番高いところまで上がって海(西側)の方をみると、両側(北側と南側)に延びる一段高い尾根に挟まれた場所に遺跡があることがわかりました。遺跡も丘陵上にあるのですが、両側がそれよりも高いために、相対的に一段低い場所にあることになります。また、遺跡の一番上はそこそこ標高があるので、瀬戸内海からの海風が吹き付けて寒かったです。次に斜面の一番低いところまで下りて山側を見上げると、思っていた以上の急斜面で、海からの強い風を背中に感じることができました。この時期は北西からの強い季節風が吹くようです。
これらのことから、この遺跡のある場所は瀬戸内海からの海風が津名丘陵に吹き上げる風の通り道になっているのではないかと思いました。紹介ビデオにあった袋状のふいごで炉の温度を上げたこともあったでしょうが、この強い風をうまく利用することで同程度の効果を得ることができたのではないでしょうか。さらに妄想を膨らませると、この海風を使って野だたらが行われていたと考えることはできないでしょうか。そうすると、ここで鋳造鉄斧片が出ている事実は重いような気がします。
建物跡は遺跡内に点在するように見つかっており、実験工房として利用されている大型建物「ごっさ鉄器工房」を含めて数棟が復元されていましたが、すべての復元建物の入口が南側を向いています。全国の遺跡から見つかる多くの竪穴住居が南や南東を向いていることからそのように復元されたと思われますが、南を向いているのはおそらく太陽光を住居内に取り入れるため、あるいは太陽信仰につながる精神性などによるものなのでしょう。ところが、この遺跡ではその南向きということに違和感を覚えました。
西側の瀬戸内海から吹き上げてくる風を利用して鍛冶炉の温度を上げていた可能性を考えると、入口は西側(海側)を向いて開いていなければなりません。斜面を吹きあがってきた風を小さな入口で迎え入れて住居内の気圧を一気に高めることにより、酸素濃度の濃い空気が取り込めたのではないでしょうか。これによって炉の温度を上げて鉄を溶融したのだと思います。
そして、鉄の溶融ができたということは野だたらで製鉄を行なっていた可能性も十分に考えられ、この場合、原料をどこから調達したのかが重要なポイントになります。山陰地方で盛んにおこなわれたたたら製鉄の原料は花崗岩に含まれる磁鉄鉱に由来する真砂(まさ)砂鉄ですが、これは淡路では採取されないので、安山岩に由来する赤目(あこめ)砂鉄が用いられたのでしょうか。あるいは播磨や吉備から砂鉄が運ばれたのでしょうか。弥生時代終末期の鍛冶工房跡が出た徳島の矢野遺跡では壺に入れられた砂鉄が見つかっており、採取した砂鉄を運搬するということが行われていた可能性はありそうです。
いろいろと妄想が膨らむのですが、そもそも、畿内最大の鍛冶工房を運営した勢力はどんな勢力で、なぜここで鉄器生産が行われたのか、ここで作られた鉄製品はどこへ供給されたのかなど、考えるべきことがたくさんあるので、検討課題としておきたいと思います。
五斗長垣内遺跡から北東に数キロのところに、五斗長垣内から少し遅れる弥生時代後期から終末期に鉄器生産を行う集落として栄えた舟木遺跡があります。4棟の工房や20棟の竪穴建物跡が発見され、釣り針などの漁具や小刀を含め、およそ170点もの鉄器が出土しました。淡路の勢力を考えるにあたってはこの舟木遺跡も含めて考える必要がありますね。
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この遺跡は、2004年に淡路島を襲った巨大な台風23号による被害からの復旧の際に見つかった遺跡で、出土品などから弥生時代後期の鉄器製作にかかわる遺跡であることがわかりました。23棟の竪穴建物跡のうち、12棟において鉄器を作る作業を行った炉跡が見つかったほか、朝鮮半島製とみられる鉄斧や鉄鏃など100点を超える鉄器、石槌や金床石、砥石など多数の石製鍛冶工具類も出土しています。直径が10メートルを超える国内最大規模の鍛冶工房を営むなど、ひとつの遺跡で100年以上もの長期にわたって鉄器を作り続けた珍しい遺跡とされていますが、最盛期は2世紀後半で、卑弥呼が登場する頃には稼働を終えていたことがわかっています。
駐車場に車を停めてガイダンス施設に入ると、右手に出土物の展示コーナー、左手が「まるごキッチン」という小さなカフェ、右奥に会議室(研修室かな)があります。この会議室で遺跡の紹介ビデオを見るのですが、地元の津名高校の放送部が制作したビデオはなかなか見ごたえのある素晴らしいものでした。弥生時代に入手できる素材(細竹、蓮の茎、動物の皮など)を使って袋状のふいごを作り、炉に空気を送り込む実験がビデオで紹介されていました。
ビデオを見た後は展示コーナーを見学します。展示物はすべてレプリカで、解説パネルは簡潔でわかりやすい内容でしたが、とくに「鋳造鉄斧片」と書かれた遺物が気になりました。「鍛冶による再加工が困難とされている鋳造鉄斧片が何のために鍛冶工房に持ち込まれたのか、今後の検討課題です」と解説されていました。
この遺跡は鍛冶工房とされているので、朝鮮半島などから材料となる鉄素材を運び込んで、鍛冶炉で熱して石製の工具類を使って鍛造した、と考えられていますが、大きな鉄片は鍛造が難しいということです。この鋳造鉄斧片は本当に外部から持ち込まれたのでしょうか。この場所で鋳造したとは考えられないのでしょうか。
ガイダンス施設を反対側(北側)に出ると一面に遺跡が広がり、右手に津名丘陵、左手に瀬戸内海が見えます。何カ所かに竪穴建物が復元されていますが、まず遺跡全体の立地や構造を考えてみました。
斜面の一番高いところまで上がって海(西側)の方をみると、両側(北側と南側)に延びる一段高い尾根に挟まれた場所に遺跡があることがわかりました。遺跡も丘陵上にあるのですが、両側がそれよりも高いために、相対的に一段低い場所にあることになります。また、遺跡の一番上はそこそこ標高があるので、瀬戸内海からの海風が吹き付けて寒かったです。次に斜面の一番低いところまで下りて山側を見上げると、思っていた以上の急斜面で、海からの強い風を背中に感じることができました。この時期は北西からの強い季節風が吹くようです。
これらのことから、この遺跡のある場所は瀬戸内海からの海風が津名丘陵に吹き上げる風の通り道になっているのではないかと思いました。紹介ビデオにあった袋状のふいごで炉の温度を上げたこともあったでしょうが、この強い風をうまく利用することで同程度の効果を得ることができたのではないでしょうか。さらに妄想を膨らませると、この海風を使って野だたらが行われていたと考えることはできないでしょうか。そうすると、ここで鋳造鉄斧片が出ている事実は重いような気がします。
建物跡は遺跡内に点在するように見つかっており、実験工房として利用されている大型建物「ごっさ鉄器工房」を含めて数棟が復元されていましたが、すべての復元建物の入口が南側を向いています。全国の遺跡から見つかる多くの竪穴住居が南や南東を向いていることからそのように復元されたと思われますが、南を向いているのはおそらく太陽光を住居内に取り入れるため、あるいは太陽信仰につながる精神性などによるものなのでしょう。ところが、この遺跡ではその南向きということに違和感を覚えました。
西側の瀬戸内海から吹き上げてくる風を利用して鍛冶炉の温度を上げていた可能性を考えると、入口は西側(海側)を向いて開いていなければなりません。斜面を吹きあがってきた風を小さな入口で迎え入れて住居内の気圧を一気に高めることにより、酸素濃度の濃い空気が取り込めたのではないでしょうか。これによって炉の温度を上げて鉄を溶融したのだと思います。
そして、鉄の溶融ができたということは野だたらで製鉄を行なっていた可能性も十分に考えられ、この場合、原料をどこから調達したのかが重要なポイントになります。山陰地方で盛んにおこなわれたたたら製鉄の原料は花崗岩に含まれる磁鉄鉱に由来する真砂(まさ)砂鉄ですが、これは淡路では採取されないので、安山岩に由来する赤目(あこめ)砂鉄が用いられたのでしょうか。あるいは播磨や吉備から砂鉄が運ばれたのでしょうか。弥生時代終末期の鍛冶工房跡が出た徳島の矢野遺跡では壺に入れられた砂鉄が見つかっており、採取した砂鉄を運搬するということが行われていた可能性はありそうです。
いろいろと妄想が膨らむのですが、そもそも、畿内最大の鍛冶工房を運営した勢力はどんな勢力で、なぜここで鉄器生産が行われたのか、ここで作られた鉄製品はどこへ供給されたのかなど、考えるべきことがたくさんあるので、検討課題としておきたいと思います。
五斗長垣内遺跡から北東に数キロのところに、五斗長垣内から少し遅れる弥生時代後期から終末期に鉄器生産を行う集落として栄えた舟木遺跡があります。4棟の工房や20棟の竪穴建物跡が発見され、釣り針などの漁具や小刀を含め、およそ170点もの鉄器が出土しました。淡路の勢力を考えるにあたってはこの舟木遺跡も含めて考える必要がありますね。
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