唐古・鍵遺跡では銅鐸片や銅鐸の鋳型など銅鐸鋳造関連遺物が出土したことから、銅鐸の製造や銅鐸による祭祀が行われていたことが推定される。銅鐸の使途はまだ定説がないが、農耕に関わる祭器であったとする説が有力である。当初は音を鳴らす楽器として用いられたらしいが、終末期には大型化して見せるためのものに変わっていったようである。
銅鐸の原型についても様々な説がある。朝鮮半島の小銅鐸という説や「魏志韓伝」に「大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神につかえる」という一文があり、この「鈴」が原型であるという説、あるいは中国の鐸という楽器であるという説もある。銅鐸の材料となる鉛の同位体比を分析することにより鉛の原産地が特定できるが、それによると前期の銅鐸は朝鮮半島産の鉛を使っており、それが後期になると中国華北産を使うようになったことが判明している。このことからその原型が何であるにせよ、朝鮮半島や中国から伝わったものであることは間違いないと思われる。また、銅鐸製造には、炉の構築、精巧な鋳型の製作、高温による銅の溶融など様々な技術力と朝鮮半島や中国から材料となる銅や鉛を調達する交易力が必要となることから渡来人が関与していたことは間違いない。つまり、銅鐸を製造していた集落は渡来人が居住する集落である、ということだ。その証拠として唐古・鍵遺跡の人骨があげられる。
また、様々な技術力を駆使して製造された銅鐸は極めて貴重なものであり、これを保有する集落はその地域の有力な集落であると言える。さらに豊穣を祈る農耕祭祀に使用されるとともに貴重な財宝であるとも言えるので、集落の首長の統治権力の象徴にもなっていたと思われる。
銅鐸は全国で約500個が発見されており、その大半が畿内を中心とするいわゆる銅鐸文化圏内である。紀元前2世紀から2世紀までの約400年にわたって製造、使用されたとされるが、唐古・鍵遺跡においても弥生後期にはその痕跡が見られなくなる。これは九州などの銅鐸文化圏の外からやってきた集団の影響により祭祀形式の変更を余儀なくされた可能性が高いと言われる。九州からやってきた神武勢力が畿内の饒速日命の勢力を押さえたことと符合し、その時期は弥生時代後期のことであると考えられる。神武と饒速日命はともに江南の地を故郷に持つ同系集団であったが、一方は南九州の地で文化を育み、もう一方は日本海側の丹後から畿内を拠点に文化を育んだ。南九州において銅鐸が製造されることはなかったのだ。
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銅鐸の原型についても様々な説がある。朝鮮半島の小銅鐸という説や「魏志韓伝」に「大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神につかえる」という一文があり、この「鈴」が原型であるという説、あるいは中国の鐸という楽器であるという説もある。銅鐸の材料となる鉛の同位体比を分析することにより鉛の原産地が特定できるが、それによると前期の銅鐸は朝鮮半島産の鉛を使っており、それが後期になると中国華北産を使うようになったことが判明している。このことからその原型が何であるにせよ、朝鮮半島や中国から伝わったものであることは間違いないと思われる。また、銅鐸製造には、炉の構築、精巧な鋳型の製作、高温による銅の溶融など様々な技術力と朝鮮半島や中国から材料となる銅や鉛を調達する交易力が必要となることから渡来人が関与していたことは間違いない。つまり、銅鐸を製造していた集落は渡来人が居住する集落である、ということだ。その証拠として唐古・鍵遺跡の人骨があげられる。
また、様々な技術力を駆使して製造された銅鐸は極めて貴重なものであり、これを保有する集落はその地域の有力な集落であると言える。さらに豊穣を祈る農耕祭祀に使用されるとともに貴重な財宝であるとも言えるので、集落の首長の統治権力の象徴にもなっていたと思われる。
銅鐸は全国で約500個が発見されており、その大半が畿内を中心とするいわゆる銅鐸文化圏内である。紀元前2世紀から2世紀までの約400年にわたって製造、使用されたとされるが、唐古・鍵遺跡においても弥生後期にはその痕跡が見られなくなる。これは九州などの銅鐸文化圏の外からやってきた集団の影響により祭祀形式の変更を余儀なくされた可能性が高いと言われる。九州からやってきた神武勢力が畿内の饒速日命の勢力を押さえたことと符合し、その時期は弥生時代後期のことであると考えられる。神武と饒速日命はともに江南の地を故郷に持つ同系集団であったが、一方は南九州の地で文化を育み、もう一方は日本海側の丹後から畿内を拠点に文化を育んだ。南九州において銅鐸が製造されることはなかったのだ。
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