次に、第4代の懿徳天皇から第6代の孝安天皇までを見てみる。
■懿徳天皇(第4代)
中世の『古今和歌集序聞書三流抄』に、懿徳天皇が出雲に行幸して素戔嗚尊に出会うという逸話がある。出雲へ行幸したとは考えにくいが、出雲の流れをくむ邪馬台国との関係強化があったことの示唆であろうか。この懿徳天皇以降は次の孝昭天皇を除き「日本」や「倭」を諡号に持つことになる。
■孝昭天皇(第5代)
子である天足彦国押人命は古事記においては和珥氏のみならず春日氏・小野氏・大宅氏・粟田氏・柿本氏など多くの氏族の祖となっている。特に和珥氏・春日氏の本拠地は現在の天理市で邪馬台国の近くである。孝安天皇は子を邪馬台国付近に進出、定着させて勢力を拡大したと思われる。天理市は纏向遺跡の北にあり、纏向を挟み撃ちにする形にもなっている。皇居がある掖上の近くには神武・綏靖・安寧の后の祖神である事代主神を祀る鴨都波神社があり、鴨氏とのつながりが見える。また、后である世襲足媛の系譜から尾張氏とのつながりも想定される。
■孝安天皇(第6代)
皇居のおかれた「秋津嶋」は秋津洲、蜻蛉嶋など、のちに日本全体の呼称にもなる地名であるが、もともとはこの宮がおかれた奈良盆地南西部の葛城地方を指す地名であったと考えられる。この室秋津嶋宮は葛城襲津彦の墓と言われる宮山古墳と接する場所が跡地に比定されており、鴨氏から派生した葛城氏との関係の強さが伺われる。
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■懿徳天皇(第4代)
中世の『古今和歌集序聞書三流抄』に、懿徳天皇が出雲に行幸して素戔嗚尊に出会うという逸話がある。出雲へ行幸したとは考えにくいが、出雲の流れをくむ邪馬台国との関係強化があったことの示唆であろうか。この懿徳天皇以降は次の孝昭天皇を除き「日本」や「倭」を諡号に持つことになる。
■孝昭天皇(第5代)
子である天足彦国押人命は古事記においては和珥氏のみならず春日氏・小野氏・大宅氏・粟田氏・柿本氏など多くの氏族の祖となっている。特に和珥氏・春日氏の本拠地は現在の天理市で邪馬台国の近くである。孝安天皇は子を邪馬台国付近に進出、定着させて勢力を拡大したと思われる。天理市は纏向遺跡の北にあり、纏向を挟み撃ちにする形にもなっている。皇居がある掖上の近くには神武・綏靖・安寧の后の祖神である事代主神を祀る鴨都波神社があり、鴨氏とのつながりが見える。また、后である世襲足媛の系譜から尾張氏とのつながりも想定される。
■孝安天皇(第6代)
皇居のおかれた「秋津嶋」は秋津洲、蜻蛉嶋など、のちに日本全体の呼称にもなる地名であるが、もともとはこの宮がおかれた奈良盆地南西部の葛城地方を指す地名であったと考えられる。この室秋津嶋宮は葛城襲津彦の墓と言われる宮山古墳と接する場所が跡地に比定されており、鴨氏から派生した葛城氏との関係の強さが伺われる。
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