倭国の女王である卑弥呼は狗奴国の男王である卑弥弓呼と関係が悪く、互いに争う状況にあった。この戦いの結果は記されていないがこれまでに書いたとおり、狗奴国が勝利した可能性が高い。この出来事が3世紀半ばのことだ。倭人伝ではそれに先駆ける2世紀後半のこととして倭国の乱(倭国大乱)にも触れている。当時、中国の魏に朝貢する国(使訳通じる所)が30ケ国であったと記しているので、互いに争った倭国とはこの30ケ国のことを指していると考えるのが自然であり、だからこそ、それらの国の1つである邪馬台国の女王卑弥呼を共立することで戦乱を収束させることができたのであろうが、私はこの混乱の機に乗じて狗奴国を始めとする倭国に属さない国々も参戦したという可能性を考えたい。
倭国大乱の痕跡として「高地性集落」がよく指摘される。高地性集落とは、弥生時代中・後期に標高100メートルを超える高地の山頂部や斜面に形成された集落である。集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり、西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから狼煙の跡とも推定されている。遺跡の発掘調査からは高地性集落が一時的なものではなく、かなり整備された定住型の集落であることがわかっている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃も多く発見されている。以上のことから、高地性集落を山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。高地性集落の分布は、弥生中期には中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期には近畿とその周辺部にほぼ限定されている。集落の分布状況や、弥生中期~後期という時期に着目して倭国大乱との関連性を重視する意見がある。この意見によれば、瀬戸内海や大阪湾岸が倭国大乱の舞台になったと言えそうだ。
倭国大乱は北九州各国や投馬国などの日本海沿岸国のみならず、瀬戸内海沿岸各国、大阪湾岸各国など当時の西日本全体を巻き込む広範囲にわたる争いであった。そう考えると、その範囲にあった国は魏と朝貢していた30ケ国だけでなく、狗奴国やその他の国も含まれていたと考えるのが自然であろう。
そして魏と朝貢関係にあった国々は邪馬台国の卑弥呼を女王として共立することでまとまった。一方で狗奴国やその他の国々はこの邪馬台国連合に対抗する意味で同盟関係のような何らかのまとまりを形成したのではないかと思う。そのときに中心になったのは軍事力や技術力に秀でる狗奴国であったと考える。要するに倭国大乱が発展して「邪馬台国連合vs狗奴国連合」という構図ができあがったのである。九州における「倭国vs狗奴国」の戦いはこの状況下で勃発した。
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倭国大乱の痕跡として「高地性集落」がよく指摘される。高地性集落とは、弥生時代中・後期に標高100メートルを超える高地の山頂部や斜面に形成された集落である。集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり、西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから狼煙の跡とも推定されている。遺跡の発掘調査からは高地性集落が一時的なものではなく、かなり整備された定住型の集落であることがわかっている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃も多く発見されている。以上のことから、高地性集落を山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。高地性集落の分布は、弥生中期には中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期には近畿とその周辺部にほぼ限定されている。集落の分布状況や、弥生中期~後期という時期に着目して倭国大乱との関連性を重視する意見がある。この意見によれば、瀬戸内海や大阪湾岸が倭国大乱の舞台になったと言えそうだ。
倭国大乱は北九州各国や投馬国などの日本海沿岸国のみならず、瀬戸内海沿岸各国、大阪湾岸各国など当時の西日本全体を巻き込む広範囲にわたる争いであった。そう考えると、その範囲にあった国は魏と朝貢していた30ケ国だけでなく、狗奴国やその他の国も含まれていたと考えるのが自然であろう。
そして魏と朝貢関係にあった国々は邪馬台国の卑弥呼を女王として共立することでまとまった。一方で狗奴国やその他の国々はこの邪馬台国連合に対抗する意味で同盟関係のような何らかのまとまりを形成したのではないかと思う。そのときに中心になったのは軍事力や技術力に秀でる狗奴国であったと考える。要するに倭国大乱が発展して「邪馬台国連合vs狗奴国連合」という構図ができあがったのである。九州における「倭国vs狗奴国」の戦いはこの状況下で勃発した。
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