WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

穐吉敏子は元気だった!

2007年02月27日 | つまらない雑談

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 昨日、穐吉敏子のソロコンサートに行ってきました。toshikoを見るのは本当にしばらくぶりでした。toshikoのコンサートは、高校生のとき以来十数回目になりますが、正直言って今回に関しては77歳という年齢を考え、あまり期待していませんでした。それどころか、もしかしたらこれがtoshikoをみれる最後になるかもしれないなどと考えたりしていたのです。そういう意味では「歴史」を聴きに行こうと思っていたといえるかもしれません。

 けれども予想に反して、toshikoはとても元気でした。コンサートはたいへんすばらしいもので、敏子は連日の演奏で少し疲れているようではありましたが、プレイは好調で、アドリブはよどむことなくスムーズでした。迫力のある左手の印象的なベースランニングと、「女パウエル」といわれた往年の輝きを感じさせる右手のスピード感溢れるプレイは健在でした。あの演奏を聴かされて、77歳という年齢はちょっと信じられません。一方、バラードプレイは、ますます表現に深みが加わり、情感溢れるものになっています。現在でも、一日数時間の練習を欠かさないというtoshikoにして可能な演奏なのでしょう。

 もう一度、今度はトリオでtoshikoを聴きたい、そう思いました。

 しかしそれにしても、主催者の海蔵寺の和尚さんやジョニー照井氏がステージで長々しゃべるのはやめてほしかったですね。アンコール前の花束贈呈で和尚さんが再び登場し、しかも自分の孫(子ども?)を抱いて私的なことをしゃべった時はちょっと辟易でした。まあ、チケットも安かったのであまり文句は言えませんが……。ただ、しゃべるのであれば、チャリティーの目的とか内容について説明してほしかったと思います。出たがりも時と場合を選ばなければ、主役をぶち壊してしまうこともあるのではないでしょうか。このごろ時々思うのですが、日本人はいつから節度を失ったのでしょうかね……。言い過ぎでしょうか。

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パンフレット↓↓↓↓↓↓

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タル

2007年02月25日 | 今日の一枚(S-T)

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Tal Farlow     Tal

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 タル・ファーロウの1956年録音盤(verve)。白人モダン・ギタリストの最高峰といわれるタルの快作だ。

 どうでもいいことだが、「白人モダン・ギタリストの最高峰」という言い方が嫌いだ。似たような言葉に「白いバド・パウエル」(=クロード・ウイリアムソン)とか「女バド・パウエル」(=穐吉敏子)などというのがある。スポーツ界でも「白いペレ」(=ジーコ)などというのが思い出される。素直な褒め言葉には思われない。白いペレとはいっても、黒いジーコとは誰も言わないからだ。留保された言い回しだ。タル・ファロウの、「白人モダン・ギタリストの最高峰」という言い方に関しても、それから「白人」の語が取れたものをあまり見たことがない。

 いい作品だ。ギターという楽器であくまでシングルトーンで勝負する姿が潔い。ブルージーとかリリカルとかいった修飾語が必要ない、あるいはそれを拒否するかのような、シングルトーンギターによる直球勝負である。じっくりと演奏を聴きたくなる一枚である。ギター、ピアノ、ベースというシンプルな編成も好感が持てる。過剰なものがなく、ただただモダンなギター演奏を聴くアルバムである。過剰なものといえば、奇才エディ・コスタのピアノとヴィニー・バーグのベースが妙に存在感があるということだろうか。さりげないが、この異様な存在感は一体何なのだろうか。


ソロ・オン・ヴォーグ

2007年02月22日 | 今日の一枚(S-T)

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Thelonious Monk     Solo On Vogue

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 西洋音楽の平均律の権化であるピアノという楽器を使って、その不協和音の響きにより、ピアノという楽器の支配を脱出すること、それがセロニアス・モンクという人のめざしたテーマであることは周知の通りである。

 1954年録音の『ソロ・オン・ヴォーグ』。そんな小難しいことを考えなくても十分楽しめる作品である。訥々とした演奏が時代を感じさせるモノラル録音によって一層引き立っている。私としては、モンクの作品の中でも五指にはいるものと考えている。

 モンクは、一般に気難しい人と思われているようだ。実際そうだったのかもしれないし、そうではないかもしれない。ただ、少なくてもいえることは、このアルバムにおけるモンクの演奏は、歌心に溢れ、音楽を愛する心に満ちているということだ。


東京大学のアルバート・アイラー

2007年02月14日 | つまらない雑談

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 遅ればせながら、話題の書を読んでいる。毎日眠る前に少しずつ読んでいるのだが、なかなか楽しい。菊地成孔・大谷能生東京大学のアルバート・アイラー』(メディア総合研究所)だ。2004年4月から2005年1月まで東京大学駒場キャンパスで行われたジャス史に関する講義の記録で、前期講義部分の[歴史編]と後期講義部分の[キーワード編]からなっている。

  基本的には、ジャズ史の素描なのだが、楽理や文化史的背景さらには時代の精神(エピステーメ)をも論じる射程をもっている。音楽とともに時代が変わり、時代とともに音楽が変化していったことをうまく理解することができ、ミュージシャンたちが何に対して、どのように戦いを挑んでいったのかをつかむことができる。一方、取り上げられた多くのレコード・CDの分析的なレビューにもなっており、なかなかに興味深い。

 革新的なビ・バップの登場によって、それ以前の多様なジャズがプレ・モダンにくくられて押し込められていくという話や、1950年代においては危険な黒人音楽だったビバップをアメリカの白人メインストリームに受け入れられ易いように洗練したのが「クール」だったという説明など、なるほどと首肯できる見解も多い。また、体制化したバップ(ハード・バップ)の呪縛から逃れるべくフリーやモードやコルトレーンの音楽がどんな構想を持ち、どのように時代を突き破ろうとしたのかなど、これまで頭では何となくわかったつもりでいたことが、より具体的で分析的に理解できたような気がした。

 2004年の駒場でこの講義をきいた人たちはラッキーだったと思う。私も機会があれば拝聴したかったと思うほどだ。この書を読んでいて、しばらくぶりにマイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』やオーネット・コールマン『ジャズ来るべきもの』を聴きたくなった。

 ところで、これに関して面白いブログがあったので紹介しておく。

You Tube で読むジャズ史「東京大学のアルバート・アイラー」①

You Tube で読むジャズ史「東京大学のアルバート・アイラー」②

 労作である。


チック・コリア風味のスタン・ゲッツ

2007年02月06日 | 今日の一枚(S-T)

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Stan Getz     Captain Marvel

Watercolors0004_2 しばらくぶりのスタンゲッツ。1972年録音の『キャプテン・マーベル』だ。

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  Chick Corea (el-p)

  Stanley Clarke (b)

  Tony Williams (ds)

  Airto Moreira (per)

 あのかもめジャケットのReturn To Forever の一ヵ月後に録音されたこの作品は、チック好みのラテン色溢れるナンバーをゲッツが料理していくという趣向だ。曲目も① La Fiesta やオリジナル盤にはなかった⑦ Crystal Silence などReturn To Forever のアルバムとダブるものもあり、メンバーもチックのほか、スタンリー・クラークやアイアート・モレイラなどReturn To Forever のメンバーが起用されているのが興味深い。チックがエレクトリック・ピアノを使ってReturn To Forever ばりの演奏を展開し、ゲッツがそれにどう応じるかが聴きどころだ。

 私は好きだ。結論だけいうなら、やはりスタン・ゲッツはすごい。フュージョンまがいのサウンドにもきちんとレスポンスし、それでいてゲッツ自身の特色を失うことはない。相手に合わせつつも、言うべきことはきっちりいわせてもらうといった感じだ。名曲⑦ Crystal Silence などReturn To Forever のものを聴きなれた耳には違和感を感じるが、聴き込むにつれ、それとは違った深い落ち着きのある音色に魅了される。

 


カタロニアン・ナイツ

2007年02月05日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 125●

Dexter Gordon     Bouncin' With Dex

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 『バウンシン・ウィズ・デックス』……。デクスター・ゴードンがヨーロッパのレーベル Steeple Chase に残した1975年録音盤だ。

 デクスター・ゴードンといえば、朗々としたブローが魅力ということになっている。まあ結局そういうことになるのだけれど、僕は、音の伸ばし方が魅力的だと表現することにしている。その方が偉そうじゃなくていいじゃないか。それに、朗々としたブローなどというと、余裕綽々の悠然たる演奏という感じが強いが、デックスはもっと音に自分の思いを込め、ぶつけてくるような演奏家であるように思うからだ。このアルバム収録で名演の誉れ高い「カタロニアン・ナイツ」などを聴くとますますその思いを強くする。この曲のデックスは、朗々としたブローというにはあまりに情熱的ではないか。映画「ラウンドミッドナイト」に登場したような渋い悠然としたデックスも悪くはないが、こういう情熱的なデックスが本当は好きなのだ。

 ところで、テテ・モントリューは個性的なピアニストだ。このアルバムを聴きこむにつれ、このスペイン生まれの盲目のピアニストの存在感が際立ってくるのはどういうことだろうか。デクスター・ゴードンが作曲した「カタロニアン・ナイツ」もカタロニア出身のモントリューを念頭において作られた曲だということだ。

 このアルバムがデクスター・ゴードンがSteeple Chase に残した最後の録音となり、翌76年アメリカに帰国する。


フロム・A・トゥ・Z

2007年02月05日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 124●

Al Cohn & Zoot Sims     From A To Z

Watercolors0001_7  インフルエンザのため自宅待機の一日だった。身体の調子はだいぶいいのだが、ちょっと仕事をするとすぐ汗ばんでくる。じっくり音楽でも聴けばよかったのだが、ひとり残された自宅には何かと家事があるのだ。本調子でない身体を動かしながら、主婦も大変だと思ったりもした。

 名コンビ、アル・コーン = ズート・シムズの記念すべき第一作、1956年録音の『フロム・A・トゥ・Z』だ。以前にも述べたが、彼らの演奏はテナーバトルというより、互いに補い合い、強力することで成立している演奏だと思う。まさに、「協力は強力」である。

 ご機嫌な一枚だ。アンサンブルは伸びやかで落ち着きがあり、バンドは本当に楽しげにスウィングする。ソロは淀みなく流れ、永遠に続くかのようだ。心はウキウキ、ただただ楽しく気持ちいい。彼らの演奏の背景にも音楽理論なるものがあるのだろうが、彼らの音楽を聴くためにはそのようなものは一切不要だ。彼らの演奏は難しい顔をして聴く音楽ではないのだ。今考えれば、60年代や70年代のJazz喫茶で「瞑想」しながら聴くには、もっとも不似合いな音楽だったかもしれない。

[Al Cohn & Zoot Sims関連記事]

ハーフ・ノートの夜

[Zoot Sims 関連記事]

デュクレテのズート

イフ・アイム・ラッキー

ソプラノ・サックス


イン・マイ・ドリームス

2007年02月05日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 123●

Dusko Goykovich     In My Dreams

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 数年ぶりにインフルエンザに感染した。一昨日の朝から39度をこえる熱を発し、夢と現の間を彷徨うようであった。タミフルを服用して、やっと?昨日になって熱が下がった。まだ少し頭痛はあり、医者からは、今日の仕事は禁じられているが、全体的な身体の調子はよくなってきた。

 「夢と現の間を彷徨った」ということで、今日の一枚は、ボスニア出身のトランペッター、ダスコ・ゴイコヴィッチの2000年録音盤の『イン・マイ・ドリームス』……。バラード集だ。やや内容が単調で飽きると感じることもあるが、さすが哀愁のトランペッターといわれる男、哀しみを湛えた音色は味わい深い。病み上がりの身体にも優しく響いてくれる。

 1991年からはじまったユーゴスラビア紛争において、旧ユーゴは、スロベニア、クロアチア、ボスニア-ヘルツェゴビナ、マケドニア、新ユーゴに分裂し、その後新ユーゴも国名変更を経て、2006年にはセルビアとモンテネグロに分離独立した。結局旧ユーゴスラビアは6つの国に分裂したことになる。1931年生まれのダスコは、このような激動の中を生きてきたわけだ。少なくとも表面的には平和を謳歌している日本人の私には想像もつかないことだが、旧ユーゴの紛争と分裂はダスコにとっては、大きな意味をもつに違いない。自分を育んだ祖国と文化が失われてしまったことが、ダスコの郷愁と哀しみを湛えた表現に関係していると考えるのはうがった見方だろうか。

 民族というものを意識したことのない日本人の戯言と嘲笑されるに違いないが、ユーゴスラビアが存在した約70年近くの間に異なる民族の間での混血が進み、自らを「ユーゴスラビア人」と名乗る者もあったという事実を知るにつれ、ユーゴの紛争は残念でならない。

 本CDには、日本盤のみへのボーナストラックの⑩ BalladFor Belgrade が収録されているが、この曲は彼がコンサートなどでもしばしば演奏するらしい。ベルグラードとは、いうまでもなく、旧ユーゴスラビアの首都であり、ユーゴスラビア文化の中心であった。ダスコも若い頃ベルグラードの音楽アカデミーで学んだようだが、ボスニア出身のダスコが、ベルグラードのためのバラードを好んで演奏することに、ダスコの旧ユーゴへの想いを垣間見るのは考えすぎだろうか。

 


地域に貢献した老医師のこと

2007年02月01日 | つまらない雑談

 近所の老先生がなくなった。町のはずれにある小さな医院の先生だった。かかりつけの医者だった。難病にかかっているらしいと風評では聞いていたが、残念でならない。

 現代にあっては風変わりな医者で、簡単に薬を使わない先生だった。若い頃、風邪を引いた時、多くの仕事を抱えて忙しく、「先生、注射を一本お願いします」と頼んだら、「ふざけるな、風邪を馬鹿にしてはいけない。3日間仕事を休んで家で寝てろ」と叱られた。注射を使う場合でも、黄色い色をした栄養剤がほとんどだった。いつも同じ栄養剤注射ばかり使うので、看護婦は指示される前にその黄色い注射を準備しているような始末だった。診断も「風邪だ。寝てろ」がほとんどだった。だから近所の人たちの中にも、ヤブ先生などと陰口をたたき、「あの先生のところに行ってもどうせ風邪といわれるから」とバカにした発言をする者もいた。

 その医院はいつもすいていた。ヤブ先生などと陰口をたたく事情を知らない者らは町の中心部の病院までわざわざいっていたのだった。患者は老人が主で、受付から診察・処置・会計まで多くの場合15~20分もあれば終わってしまうような始末だった。だから、調子が悪くて診てもらいにいけば、すぐに診察してくれた。ガラガラなのになぜか看護婦の数が多かった。

 けれども、その先生は本当は名医だったのだ。ある時、身体の調子が悪く、いつものように風邪だといわれることを予想しつつも、一応診てもらおうとその小さな医院に行ったところ、突然診察をするその先生の目つきが変わり、「すぐ○○病院へ行け」といわれた。先生はその場で同じ町の大病院に電話をし、命令口調で大病院の医師に細かい支持をした。大病院に行ったところ優先的に検査をうけ、大きな病気を初期の段階で発見することができた。

 その老医師は、若い頃、都会の大病院の内科部長を務めた程の男で、院長候補でもあったらしいが、私の近所で小さな医院を営んでいた父親がなくなり、家業をつぐために、地位や名誉を捨てて戻ってきたのだ。以来、数十年間、その先生は地域に根をおろし、その小さな医院で医療活動を続けてきた。患者を薬づけにしない医療方針と儲からなくても町のはずれでがんばる先生の人柄に、地域の老人たちの信頼はあつかった。一方にヤブと陰口をたたく者らがいたが、もう一方には信頼をよせる者たちがいた。少なくともいえることは、その先生のおかげて多くの人たちが、助かり、安心して暮らせたということだ。

 仕事というものは、誰かのためにやるものだということを身をもって示した男だった。

 心から冥福を祈りたい気持ちだ。