コメント
半年とは…
(
京極堂
)
2012-12-24 18:34:19
大変でしたね。あの界隈は、確かにビックな方がいらっしゃいましたね。結構、成果があがった調査だったのでは。
FWという身に余る重要なポジションを司令塔から頂いたので(笑)、雑事を済ませたら改めて。さぁ、スーメテさまも出番ですよ(笑)!
わたしも!
(
はずれ
)
2012-12-24 19:56:22
東京から駆けつけました!
重機も何もない時代に、あれだけ大きな石をあれだけ細やかに傾斜をそろえる技術はすごいと思いました。
またそれをあっという間に壊してしまう秀吉の激情もも恐ろしい…
小雪交じりの寒さにも拘わらず考古学ファンの方がこんなにたくさんいらっしゃるということにも驚きました。このような機会は初めてでしたがとても勉強になりました。情報を教えてくださったごんぎつね様、ありがとうございました。
もしやamadeusさまがいらっしゃるかと「例のリュック」の方がいらっしゃるかと探しましたがお目にかかれず残念でした。すれ違いでしたね。
その名は知られているのに
(
京極堂
)
2012-12-24 19:59:32
分からない事が多いですね。破却されているから当然ですが、遺構がありません。西本願寺飛雲閣は聚楽第の遺構という、よく知られた伝承がありますが、研究者の見解はほぼ否定です。他にも聚楽第の遺構といわれるものは、幾つかありますが、?(ホント)というのが殆どのようです。
そういう中で、平成3年に現西陣ハローワークの建替に伴う発掘調査で、本丸の東堀と推測されるものや、建物などに葺かれていた金箔瓦が大量に見つかり、その実像が徐々に明らかにされてきました。
かつて、石垣を検出した調査もありましたが、今回の調査は規模もそうですが、石垣の傾斜や裏込の栗石の状況など色々な情報を持つ重要な調査であります。
近年、隣接する辰巳公園の調査で、地表下7mを越える深さの所で堀底を検出しているので、この付近で石垣が見つかることは予想されましたが、実際に現れましたね。
写真からだけでは伝わりにくいかもしれませんが、実際に見ると迫力ありますね。ただ残念なのは、やはり石垣の上部は壊されていて本来の高さは、はっきりしないということ。
長くなりましたが、つづきは後程(笑)!
はずれさま
(
amadeus
)
2012-12-24 20:29:56
今日僕は14:00頃に行きましたが、
諸事情により
「あのリュックではなかった」
のです!
それでは探してもいませんね(笑)
>あっという間に壊してしまう秀吉
もはや秀次にしか見えなかったのでしょうね。
それにもし豊臣時代に残っても、徳川幕府が聚楽第を残したのかは、いささか疑問でしょうね。
どの道なくなる運命の楼閣だったのではないでしょうか。
京極堂さま
(
amadeus
)
2012-12-24 20:38:01
まあ徹底的に破却したといっても、石垣の下で残っている部分ぐらいはあってもいいですもんね。
まあ不可能ですけど、聚楽第遺構部分のすべてを同時に掘り起こして見てみたいですね。
そうだったのですか
(
はずれ
)
2012-12-24 21:18:40
私は10時半ころ行ったのですが、仮に時間帯が同じだったとしても「あのリュック」がなければ人物特定は難しかったですね。
現場で説明の順番を待つ間、リュックの男性・男の子連れの男性に鋭い視線を走らせていた私はかなり怪しかったかも(笑)
いつの日かお目にかかれる機会があることを願っています。
はずれさま
(
amadeus
)
2012-12-24 21:24:29
>いつの日かお目にかかれる機会があることを願っています
春の
第2回 アマデウス会
でお待ちしています!
ちょっと危険なパスの気もしますが
(
2級のほう
)
2012-12-24 22:13:05
奥さんの実家が、堀川上長者だったりするので、気になる話題です。
先日、京極堂さまから頂いた地図で気になったことがあります。大名屋敷の配置を書いた地図ですが、これは「家康公」などという表現を用いていることから、豊臣方が残した資料だと思われます。で、これって実現したかどうかは別として、こうしたかったという資料なのですよね。となるとこの大名屋敷の配置が気になります。
要は聚楽第への近さに応じて、秀吉が信頼していた大名ランキングといってもいいのですよね。また、わざと仲悪いものを隣にしたりとか、そういうこともありそうです。このあたり、京極堂さま、スーメテさま(気がつけばこの呼び名が流行りのようです。ゲームみたいですが。)、amadeusさまなど、戦国時代に一家言あるかたのご意見を伺いたいものです。
2級のほうさま
(
amadeus
)
2012-12-24 22:26:16
地図を見ました。
個人的な感想ですが、
豊臣秀長(大和大納言)、豊臣秀次(三好孫七郎)小早川秀秋(金吾中納言)、堀秀政(久太郎)や浅野長政が近いのはいいのですが、蒲生氏郷ってこんなに近くなんでしょうか。
信長の義弟なので、気を使ったのでしょうか。
逆に宇喜多秀家はもっと近くてもいいように思うのですが。
ほぼ一門衆でしょう。
あぁ、、、金山寺焼失
(
super-meteor
)
2012-12-24 23:10:32
どうも、スーメテです… 岡山の重文:金山寺が火事で焼失↓↓ 大変ショックを受けております。いずれ、行こうとリストアップしていたのですが… 文化財の最大の敵は「火」です!
気を取り直し、サイドハーフとして、ドリブルをします。
今日気になったのは花崗岩固めであること~~ 大和郡山城や信長の安土城のように、転用石を全く使っていないということ、資料によれば秀吉期大坂城も使ってないようですので、秀吉の石に対するこだわりは尋常ではなかったことを感じました。
やはり、聚楽第は京を『守る』城というより『魅せる』城としての性格が前面に出てくる気がしました。
また、それなりに大きく貴重な花崗岩を使っているなら、聚楽第解体の際、石もどこかに運び出されているはずなので、その行先も気になります。やはり、第一次伏見城(大地震で倒壊)でしょうかね。
まず、ドリブルはここでやめますw
次にセンタリングを上げますね。
あのリュックじゃないなんて
(
tsumuji
)
2012-12-24 23:11:40
19時のNHKニュース見ていたら放送されていました。
目を凝らしてあのリュックを探しちゃいましたよ。
今日は違っていたんですね。
想定外でした
昨日の検索キーワード
(
amadeus
)
2012-12-24 23:35:15
そういえば、昨日の検索キーワードtop20ですが、
「南禅寺別荘群」関係が18個でした!
逆に残り2つですが、
11位の「京の冬の旅」
と
5位の「アマデウス 京都」
でした。
皆さん見ておられるのですね。
tsumujiさま
(
amadeus
)
2012-12-24 23:38:34
>あのリュックじゃないなんて
今日はもともと拝観日ではなかったので、hit and awayで帰るつもりでした。
ですので、万が一にも声をかけられるような要素を排除したかったのです・・・自意識過剰か(笑)!
センタリング
(
super-meteor
)
2012-12-25 00:08:17
>2級のほう様
危ないパスを絶妙にトラップできればいいのですがw
配置については議論の余地は大いにありますよね。京極堂様がおっしゃてたのは、京極堂資料wに示された大名屋敷は後に、多くが東方に移転することになるようです。となると、現実の町名「上杉町」等と地図の屋敷の位置がずれてくることになります。
ただ、屋敷の配置は秀吉の武将に対する信頼度を図る一つの材料になると思います。仲悪いもん同士を監視し合わせたり、一門を近辺に配したり、、、他の例(大坂城、名護屋城、伏見城)を比較してみると相関関係が出てくるかもしれませんね。センタリングをあげましたのでFW陣!シュートしてください。
>蒲生氏郷ってこんなに近くなんでしょうか
司令塔のパスに反応してみますと、
氏郷はイイ人として信長、秀吉に重宝されますね。
出世だけでも追うと、父が信長に敗れて人質 → 器量が認められて信長の娘を娶る → やがて本能寺の変後、秀吉に従い、日野6万石から伊勢12万石 → 会津42万石 → 92万石・・・「えぇぇぇ!」っていうぐらい短期間で大出世しますね。しかも、40才前にしてこれです。しかも、利休七哲に数えられてます。
推察するに、子飼いとまでは言えなくても、よほど優れた武将であったのでしょう。だから、伊達の抑えとして会津に転勤となったといえますし、、、逆の見方をすれば警戒して飛ばしたともいえます。
それだけに、氏郷が40歳にして病死するのは不可解なことでもありますし、探究心が掻き立てられますw
権力者に物凄く愛されているという意味で聚楽第の屋敷の位置は理解できますが、同時に司令塔ama様がおっしゃるように、こんな近くでいいのかっていう問いが生まれるすね。
super-meteorさま、京極堂さま
(
amadeus
)
2012-12-25 00:24:10
蒲生氏郷の件ですが、要するにもうちょっと警戒されてもいいのではないか、氏郷と秀家をチェンジでもいい気がしたのですが・・・。
それとお風呂に入っている時に素朴な疑問が・・・。
地図内の家康邸の下ですが、中川瀬兵衛とあります。
僕の知る限り、中川瀬兵衛=中川清秀です。
しかし中川清秀は、1583年の賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政に急襲され戦死しています。
一方で聚楽第が着工されたのは1586年。
それならばこの地図は1583年以前に作られた・・・
それしか可能性がないと思うのですが、どうなんでしょうか。
でなければ、まさか息子の秀政か秀成が”瀬兵衛”を名乗っていた!?
にしても失礼ながら、この場所は貰えないでしょう。
Unknown
(
maybe
)
2012-12-25 04:49:03
危険なということは有能ではあるわけですよね
そういう人は遠くにおいて自由にさせるよりは近きにおいた方が安全だと思います。
近くでフリーは危険ですが然るべき人を隣においておけばいいのではないでしょうか
中川瀬兵衛ならその場所は適当だと思えるならば、死してなお一族取り立ててもらえるとなれば今いる人はさらに頑張るのではないですかね。
同時に割り当ての理由付けもできますし。
生きているうちに作られたのかもしれませんが
maybeさま
(
amadeus
)
2012-12-25 08:31:43
>中川瀬兵衛ならその場所は適当だと思える
僕の思うに適当というか、中国大返しで味方になって貰ったので、”しょうがない”という感じだったのではないかと思います。
その後の中川家が”特に”取り立てられる理由もないと思うのです。
amadeusさま
(
maybe
)
2012-12-25 09:21:47
調べましたら
『中川氏年譜(付録)』天正8年(1580年)の内誓紙
秀吉と御取遣の内誓紙
公儀無御疎略体、中々無申計候条、向後兄弟之契約申定候、然者本知之儀者不及申、
河内国、摂津国、かけの郡之儀申上可進之候。
如斯申談上者聊以表裏抜公事有之間敷候者也。
右之旨若偽於有之者、忝日本国中、大小之神祗、八幡大菩薩、愛宏、白山御罰可罷蒙者也。
羽柴藤吉郎
中川瀬兵衛 殿
これにより羽柴秀吉と中川清秀は兄弟の契りを結んだことになり、両者の親密さをうかがわせる。
と書いていましたので功というよりは身内としてという感じなのではないでしょうか。
maybeさま
(
amadeus
)
2012-12-25 11:50:00
秀吉と清秀の関係については了解しました。
しかし当初の疑問は残ったままですね・・・。
1583年に戦死した中川清秀の名前(瀬兵衛)が、どうして聚楽第の屋敷の区割りにあるのか。
誰か解決してください!
危険なセンタリングが
(
京極堂
)
2012-12-25 12:42:39
あがってしまいましたね。2級のほうさま、大変なことをしてしまいましたね(笑)。
中川氏の件ですが、まさにamaさまの推測通りだと私も思います。息子なのでしょう。ただ、私達は後世の知識で合理的に解釈しようとするので、決定打はありませんね(笑)。携帯のバッテリーがヤバイので、帰宅してからにします。
京極堂さま
(
amadeus
)
2012-12-25 17:22:30
息子ですか・・・。
そうしかないとも言えますね。
さすがに予想図としても1583年以前、本能寺の変から1年で聚楽第の構想があったとは思いにくいですよね。
後で調べたのですが、長男の秀政でも1586年当初は18歳ぐらい、次男の秀成は16歳ぐらい。
16歳、18歳の息子が家康公の隣・・・。
違和感がありませんか・・・。
宇喜多秀家ぐらい、若年でも官位や妻の目覚ましい経歴があれば別ですが・・・。
それにこれは”親豊臣”派が作ったものなのでしょうか。
大和大納言、金吾中納言はいいとして、
”家康公”、”三好孫七郎”、”長宗我部”、”中川瀬兵衛”など、呼び方にあまりにムラがありますね(後者は失礼ではないでしょうか)。
細かいですが、”浮田”って分家筋に使う傾向があったような・・・。
本家は宇喜多や宇喜田の表記だったような記憶があるのですが。
司令塔が凄すぎて…
(
京極堂
)
2012-12-25 23:04:33
味方が従いてこれなくなりました(笑)。
amaさま、すべての疑問にお答え出来ないのは、心苦しいのですが、周りの空気も考え(笑)、宿題扱いでお願いします。
ちなみにamaさまの取り立て“しょうがない”説は、その後の状況を考えれば、全く同感です。勉強になりました。
しつこいのですが、今回の発見の意義を!
1 石垣すら見つかることが、稀だったのに列を成す状態で見つかった。
2 つまり堀の位置を改めて確定出来た。
3 石の産地や石垣の積み方の技術を知る情報を得た。
ど派手な発見とは、行きませんが、有名な割に実像が不明なお城ですから、今回の調査の意義は大きいと思います。この時代って大河ドラマのお陰で、何でも知っているような錯覚に陥ってしまいがちです。私達が思う以上に謎だらけです。だって、足軽大将時代の秀吉がどんな家に住んで、どんなものを食べていたのか、上手く説明できますか?かなり、難しいと思います(笑)。
ただ、我々の議論には大きな問題があります。一つは、我々が見ている絵図「浅野文庫諸国古城絵図」というものが、どれだけ信用に足るものかということ。二つ目は、後の歴史を知っている私達は、事実を無視して、自分に都合の良い解釈を求めがちになることです。この二つを乗り越えるために「資料批判」、「仮説の提示」、「多角的議論」が必要になります。個別の議論は、面白いものばかりなので、amaさまがコーディネーター、スーメテさま、maybeさまをパネラーにama的聚楽第シンポジウムなんてやりたいです!
エッ、私ですか?当然、外野で野次飛ばしですよ(議論白熱は必至なので、逃げます 笑)。
京極堂さま
(
amadeus
)
2012-12-25 23:31:24
>味方が従いてこれなくなりました
僕も知っている知識で攻めるだけ攻めて、後は丸投げなのでズルいですよね(笑)。
あの地図の中川瀬兵衛の謎は残ったままですね。
>取り立て“しょうがない”説は、その後の状況を考えれば、全く同感です。
恐らくですが、中川清秀と仲良くしたのは秀吉が”摂津における橋頭堡が欲しかった”からではないでしょうか。
要するにプライベートの親交ではなく、仕事上の必要性からなのではないでしょうか。
秀吉は特にプライベートで親交のあった人はとことん大事にしていますよね。
それが例え公私混同であっても。
むしろ家康の方がその辺りはドライなようです。
本当に清秀が好きであったならば、息子の秀成は宇喜多秀家並みの待遇であったと僕は思います。
>「浅野文庫諸国古城絵図」というものが、どれだけ信用に足るものかということ
すべての古文書の宿命ですね。
権力者がねじ曲げたもの、著者は真剣でも内容の裏付けがテキトーなんてことは現在でもあることです(僕もそうかも・・・笑)。
僕自身は歴史の研究者ではないので、あまり”文献”による検証をしていません。
もちろん専門家でないのもありますが、結局真実なんて当事者以外しか分かりませんからね。
内容がウソでも後世云われる”それっぽい”通説を楽しむ方が、気楽かつドラマティックなので本来は好きです(南禅寺山門の”絶景かな”とか)。
もうこの話は泥沼なので終わりにしましょうか(笑)。
はずれさま
(
京極堂
)
2012-12-25 23:56:38
ついつい熱くなり、ご挨拶が遅れてしまいました。
東京より遥々、上京へお越し下さりありがとうございました。本来、ama会の後輩としてamaさま不在の時は、おもてなしをすべき所でしたが、それも叶わず申し訳ございません。
春にお越しの際は桜も勿論ですが、“秀吉と京都”をテーマに史跡巡りも悪くないと思います。お声掛けして頂いたら、参上し同行させて頂きたいと思います(平伏)。もし企画されたら、乗っかる物好きが複数名、現れると思います(笑)。
バルサのようなパス回し
(
2級のほう
)
2012-12-25 23:58:37
パスしておいてなんですが、とても楽しく皆さんの意見を拝見しました。amadeusさまのおっしゃる通り、歴史=勝者の物語ですので、実際にどうだったかを推し量ることは、たとえ明確な文献があったとしても難しいですよね。答えがあるわけではないので、状況証拠とか、前後関係とかで考えていくしかないわけで。その点、回答いただいた方々の知識が流石に深く、大変面白かったです。ありがとうございました。
みなさんすごい
(
はずれ
)
2012-12-26 01:27:47
こんなに議論が白熱しているとはつゆ知らず、本日終い天神にお参りし、その後伏見でしこたま新酒を飲んだくれ、先ほどやっと帰宅したはずれです。
京極堂さま
そんな私にご丁寧なメッセージをありがとうございました。身の縮む思いです。びっくりしてすっかり酔いも醒めました。
昨日の発掘現場で熱心に質問しておられる方がいらっしゃいました。きっとアマデウス会の皆さんだったらこんな感じなんだろうな~と後ろで聞き耳をたてておりました。
私は日本史は大好きなのですが高校教科書程度の知識しかありません。みなさんの熱い議論を拝読しながら少しずつ学ばせていただきたいと思います。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
amadeusさま
(
maybe
)
2012-12-26 11:45:32
>本当に清秀が好きであったならば、息子の秀成は宇喜多秀家並みの待遇であったと僕は思います。
秀成の正室は盛政の次女というのからも待遇はよくないですね。
maybeさま
(
amadeus
)
2012-12-26 12:00:53
一般の方にはマニアックなお話です。
中川秀成は結局、大友吉統の旧領豊後に転封になります。
これも扱いが悪いと言わざるを得ないでしょう。
そしてこの豊後の中川家が僕のイメージに強く残っている理由があります。
それは大友家が耳川の合戦で大敗した責任者と云われている田原紹忍が、大友家改易の後、この豊後の中川家の与力になっていたからです。
田原紹忍の本の後半に出てきました。
そして最後は関ヶ原の合戦の混乱に乗じて、大友家再興を計るも討死します。
個人的には信長ー秀吉ー家康ラインより、こういう地方大名やその家老などの話しが好きです・・・やはり超マニアですね(笑)。
Amadeusさま
(
maybe
)
2012-12-26 13:29:10
先程の話ですが
人名でるとマニアックかもですが
内容は
親のかたきの娘と結婚させられた
なので御容赦を。
九州転封は家督相続が許されただけ御の字で、九州の地は秀成が須本(淡路)、宇和島(伊予)、岡(豊後)の中から選んだらしいので
悪いといえるかは「ん~」ですかね。
紹忍?、親賢でなくて、と思って確かめたら同じ人でした(笑)
バルサの鬼パス回し
(
super-meteor
)
2012-12-27 00:35:28
2級のほう様がおっしゃる通り、バルサもビックリな戦国鬼パスまわしでした(実は大の海外サッカー好きw)。 そして、中川問題については、マニアックすぎて、コメントを躊躇してしまいました。本当に院政期に移籍してよかったです(+_+)
かすかな、記憶をたどれば、、、中川家ってのは桃山時代を通じて危うい印象ですね。
父清秀が死んだとき、まだ、秀政は15才…当然、後見人もしくは、優秀な家老が必要となりますが、その人物は、叔母の嫁ぎ先、古田重然(後の古田織部)ということになります。彼が利休の死後、御茶頭として茶の湯の大家となっていくことを考えれば、秀政の弟秀成の待遇(領土)はもうちょっと配慮されるても良かったかもしれないですね。
よっぽど、見込みのない後継者であったのでしょうか?
それとも、未知の土地で武者修行してこいということでしょうか?(親心的)
答えはわかりませんwそもそも兄秀政は小田原でもそこまでの活躍はなく、文禄の役では失態を演じて亡くなっています。maybe様がおっしゃる通り、そんなこんなで、弟秀成に家督相続させるだけでも良し的な空気だったかもしれませんね。
聚楽第にバックパスをしてみると、オウンゴールですw
super-meteorは詰まれました。
super-meteorさま
(
amadeus
)
2012-12-27 08:37:55
飽くまで状況証拠による僕の推測ですが、
生前の中川清秀と懇意にしたのは
”摂津における橋頭堡が欲しかった”からだけでしょう。
当時の秀吉は摂津・播磨は早々に抑えて、毛利を攻略したかったハズですからね。
清秀亡き後の若輩の秀政、秀成にはそんな力もなければ、1583年当時の摂津・播磨は既に秀吉の思うままだったでしょうから、もう用無しだったと考えると筋が通るでしょう。
それにしてもあの地図の中川瀬兵衛の謎が残りますね。
聚楽第の構想の時点としても清秀はもう死んだ後のハズ、しかし息子ならあんな一等地に屋敷を貰えるのか?
やっぱりどう考えてもオカシイと思いませんか?
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FWという身に余る重要なポジションを司令塔から頂いたので(笑)、雑事を済ませたら改めて。さぁ、スーメテさまも出番ですよ(笑)!
重機も何もない時代に、あれだけ大きな石をあれだけ細やかに傾斜をそろえる技術はすごいと思いました。
またそれをあっという間に壊してしまう秀吉の激情もも恐ろしい…
小雪交じりの寒さにも拘わらず考古学ファンの方がこんなにたくさんいらっしゃるということにも驚きました。このような機会は初めてでしたがとても勉強になりました。情報を教えてくださったごんぎつね様、ありがとうございました。
もしやamadeusさまがいらっしゃるかと「例のリュック」の方がいらっしゃるかと探しましたがお目にかかれず残念でした。すれ違いでしたね。
そういう中で、平成3年に現西陣ハローワークの建替に伴う発掘調査で、本丸の東堀と推測されるものや、建物などに葺かれていた金箔瓦が大量に見つかり、その実像が徐々に明らかにされてきました。
かつて、石垣を検出した調査もありましたが、今回の調査は規模もそうですが、石垣の傾斜や裏込の栗石の状況など色々な情報を持つ重要な調査であります。
近年、隣接する辰巳公園の調査で、地表下7mを越える深さの所で堀底を検出しているので、この付近で石垣が見つかることは予想されましたが、実際に現れましたね。
写真からだけでは伝わりにくいかもしれませんが、実際に見ると迫力ありますね。ただ残念なのは、やはり石垣の上部は壊されていて本来の高さは、はっきりしないということ。
長くなりましたが、つづきは後程(笑)!
諸事情により
「あのリュックではなかった」
のです!
それでは探してもいませんね(笑)
>あっという間に壊してしまう秀吉
もはや秀次にしか見えなかったのでしょうね。
それにもし豊臣時代に残っても、徳川幕府が聚楽第を残したのかは、いささか疑問でしょうね。
どの道なくなる運命の楼閣だったのではないでしょうか。
まあ不可能ですけど、聚楽第遺構部分のすべてを同時に掘り起こして見てみたいですね。
現場で説明の順番を待つ間、リュックの男性・男の子連れの男性に鋭い視線を走らせていた私はかなり怪しかったかも(笑)
いつの日かお目にかかれる機会があることを願っています。
春の
第2回 アマデウス会
でお待ちしています!
先日、京極堂さまから頂いた地図で気になったことがあります。大名屋敷の配置を書いた地図ですが、これは「家康公」などという表現を用いていることから、豊臣方が残した資料だと思われます。で、これって実現したかどうかは別として、こうしたかったという資料なのですよね。となるとこの大名屋敷の配置が気になります。
要は聚楽第への近さに応じて、秀吉が信頼していた大名ランキングといってもいいのですよね。また、わざと仲悪いものを隣にしたりとか、そういうこともありそうです。このあたり、京極堂さま、スーメテさま(気がつけばこの呼び名が流行りのようです。ゲームみたいですが。)、amadeusさまなど、戦国時代に一家言あるかたのご意見を伺いたいものです。
個人的な感想ですが、
豊臣秀長(大和大納言)、豊臣秀次(三好孫七郎)小早川秀秋(金吾中納言)、堀秀政(久太郎)や浅野長政が近いのはいいのですが、蒲生氏郷ってこんなに近くなんでしょうか。
信長の義弟なので、気を使ったのでしょうか。
逆に宇喜多秀家はもっと近くてもいいように思うのですが。
ほぼ一門衆でしょう。
気を取り直し、サイドハーフとして、ドリブルをします。
今日気になったのは花崗岩固めであること~~ 大和郡山城や信長の安土城のように、転用石を全く使っていないということ、資料によれば秀吉期大坂城も使ってないようですので、秀吉の石に対するこだわりは尋常ではなかったことを感じました。
やはり、聚楽第は京を『守る』城というより『魅せる』城としての性格が前面に出てくる気がしました。
また、それなりに大きく貴重な花崗岩を使っているなら、聚楽第解体の際、石もどこかに運び出されているはずなので、その行先も気になります。やはり、第一次伏見城(大地震で倒壊)でしょうかね。
まず、ドリブルはここでやめますw
次にセンタリングを上げますね。
19時のNHKニュース見ていたら放送されていました。
目を凝らしてあのリュックを探しちゃいましたよ。
今日は違っていたんですね。
想定外でした
「南禅寺別荘群」関係が18個でした!
逆に残り2つですが、
11位の「京の冬の旅」
と
5位の「アマデウス 京都」
でした。
皆さん見ておられるのですね。
今日はもともと拝観日ではなかったので、hit and awayで帰るつもりでした。
ですので、万が一にも声をかけられるような要素を排除したかったのです・・・自意識過剰か(笑)!
危ないパスを絶妙にトラップできればいいのですがw
配置については議論の余地は大いにありますよね。京極堂様がおっしゃてたのは、京極堂資料wに示された大名屋敷は後に、多くが東方に移転することになるようです。となると、現実の町名「上杉町」等と地図の屋敷の位置がずれてくることになります。
ただ、屋敷の配置は秀吉の武将に対する信頼度を図る一つの材料になると思います。仲悪いもん同士を監視し合わせたり、一門を近辺に配したり、、、他の例(大坂城、名護屋城、伏見城)を比較してみると相関関係が出てくるかもしれませんね。センタリングをあげましたのでFW陣!シュートしてください。
>蒲生氏郷ってこんなに近くなんでしょうか
司令塔のパスに反応してみますと、
氏郷はイイ人として信長、秀吉に重宝されますね。
出世だけでも追うと、父が信長に敗れて人質 → 器量が認められて信長の娘を娶る → やがて本能寺の変後、秀吉に従い、日野6万石から伊勢12万石 → 会津42万石 → 92万石・・・「えぇぇぇ!」っていうぐらい短期間で大出世しますね。しかも、40才前にしてこれです。しかも、利休七哲に数えられてます。
推察するに、子飼いとまでは言えなくても、よほど優れた武将であったのでしょう。だから、伊達の抑えとして会津に転勤となったといえますし、、、逆の見方をすれば警戒して飛ばしたともいえます。
それだけに、氏郷が40歳にして病死するのは不可解なことでもありますし、探究心が掻き立てられますw
権力者に物凄く愛されているという意味で聚楽第の屋敷の位置は理解できますが、同時に司令塔ama様がおっしゃるように、こんな近くでいいのかっていう問いが生まれるすね。
それとお風呂に入っている時に素朴な疑問が・・・。
地図内の家康邸の下ですが、中川瀬兵衛とあります。
僕の知る限り、中川瀬兵衛=中川清秀です。
しかし中川清秀は、1583年の賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政に急襲され戦死しています。
一方で聚楽第が着工されたのは1586年。
それならばこの地図は1583年以前に作られた・・・
それしか可能性がないと思うのですが、どうなんでしょうか。
でなければ、まさか息子の秀政か秀成が”瀬兵衛”を名乗っていた!?
にしても失礼ながら、この場所は貰えないでしょう。
そういう人は遠くにおいて自由にさせるよりは近きにおいた方が安全だと思います。
近くでフリーは危険ですが然るべき人を隣においておけばいいのではないでしょうか
中川瀬兵衛ならその場所は適当だと思えるならば、死してなお一族取り立ててもらえるとなれば今いる人はさらに頑張るのではないですかね。
同時に割り当ての理由付けもできますし。
生きているうちに作られたのかもしれませんが
僕の思うに適当というか、中国大返しで味方になって貰ったので、”しょうがない”という感じだったのではないかと思います。
その後の中川家が”特に”取り立てられる理由もないと思うのです。
『中川氏年譜(付録)』天正8年(1580年)の内誓紙
秀吉と御取遣の内誓紙
公儀無御疎略体、中々無申計候条、向後兄弟之契約申定候、然者本知之儀者不及申、
河内国、摂津国、かけの郡之儀申上可進之候。
如斯申談上者聊以表裏抜公事有之間敷候者也。
右之旨若偽於有之者、忝日本国中、大小之神祗、八幡大菩薩、愛宏、白山御罰可罷蒙者也。
羽柴藤吉郎
中川瀬兵衛 殿
これにより羽柴秀吉と中川清秀は兄弟の契りを結んだことになり、両者の親密さをうかがわせる。
と書いていましたので功というよりは身内としてという感じなのではないでしょうか。
しかし当初の疑問は残ったままですね・・・。
1583年に戦死した中川清秀の名前(瀬兵衛)が、どうして聚楽第の屋敷の区割りにあるのか。
誰か解決してください!
中川氏の件ですが、まさにamaさまの推測通りだと私も思います。息子なのでしょう。ただ、私達は後世の知識で合理的に解釈しようとするので、決定打はありませんね(笑)。携帯のバッテリーがヤバイので、帰宅してからにします。
そうしかないとも言えますね。
さすがに予想図としても1583年以前、本能寺の変から1年で聚楽第の構想があったとは思いにくいですよね。
後で調べたのですが、長男の秀政でも1586年当初は18歳ぐらい、次男の秀成は16歳ぐらい。
16歳、18歳の息子が家康公の隣・・・。
違和感がありませんか・・・。
宇喜多秀家ぐらい、若年でも官位や妻の目覚ましい経歴があれば別ですが・・・。
それにこれは”親豊臣”派が作ったものなのでしょうか。
大和大納言、金吾中納言はいいとして、
”家康公”、”三好孫七郎”、”長宗我部”、”中川瀬兵衛”など、呼び方にあまりにムラがありますね(後者は失礼ではないでしょうか)。
細かいですが、”浮田”って分家筋に使う傾向があったような・・・。
本家は宇喜多や宇喜田の表記だったような記憶があるのですが。
amaさま、すべての疑問にお答え出来ないのは、心苦しいのですが、周りの空気も考え(笑)、宿題扱いでお願いします。
ちなみにamaさまの取り立て“しょうがない”説は、その後の状況を考えれば、全く同感です。勉強になりました。
しつこいのですが、今回の発見の意義を!
1 石垣すら見つかることが、稀だったのに列を成す状態で見つかった。
2 つまり堀の位置を改めて確定出来た。
3 石の産地や石垣の積み方の技術を知る情報を得た。
ど派手な発見とは、行きませんが、有名な割に実像が不明なお城ですから、今回の調査の意義は大きいと思います。この時代って大河ドラマのお陰で、何でも知っているような錯覚に陥ってしまいがちです。私達が思う以上に謎だらけです。だって、足軽大将時代の秀吉がどんな家に住んで、どんなものを食べていたのか、上手く説明できますか?かなり、難しいと思います(笑)。
ただ、我々の議論には大きな問題があります。一つは、我々が見ている絵図「浅野文庫諸国古城絵図」というものが、どれだけ信用に足るものかということ。二つ目は、後の歴史を知っている私達は、事実を無視して、自分に都合の良い解釈を求めがちになることです。この二つを乗り越えるために「資料批判」、「仮説の提示」、「多角的議論」が必要になります。個別の議論は、面白いものばかりなので、amaさまがコーディネーター、スーメテさま、maybeさまをパネラーにama的聚楽第シンポジウムなんてやりたいです!
エッ、私ですか?当然、外野で野次飛ばしですよ(議論白熱は必至なので、逃げます 笑)。
僕も知っている知識で攻めるだけ攻めて、後は丸投げなのでズルいですよね(笑)。
あの地図の中川瀬兵衛の謎は残ったままですね。
>取り立て“しょうがない”説は、その後の状況を考えれば、全く同感です。
恐らくですが、中川清秀と仲良くしたのは秀吉が”摂津における橋頭堡が欲しかった”からではないでしょうか。
要するにプライベートの親交ではなく、仕事上の必要性からなのではないでしょうか。
秀吉は特にプライベートで親交のあった人はとことん大事にしていますよね。
それが例え公私混同であっても。
むしろ家康の方がその辺りはドライなようです。
本当に清秀が好きであったならば、息子の秀成は宇喜多秀家並みの待遇であったと僕は思います。
>「浅野文庫諸国古城絵図」というものが、どれだけ信用に足るものかということ
すべての古文書の宿命ですね。
権力者がねじ曲げたもの、著者は真剣でも内容の裏付けがテキトーなんてことは現在でもあることです(僕もそうかも・・・笑)。
僕自身は歴史の研究者ではないので、あまり”文献”による検証をしていません。
もちろん専門家でないのもありますが、結局真実なんて当事者以外しか分かりませんからね。
内容がウソでも後世云われる”それっぽい”通説を楽しむ方が、気楽かつドラマティックなので本来は好きです(南禅寺山門の”絶景かな”とか)。
もうこの話は泥沼なので終わりにしましょうか(笑)。
東京より遥々、上京へお越し下さりありがとうございました。本来、ama会の後輩としてamaさま不在の時は、おもてなしをすべき所でしたが、それも叶わず申し訳ございません。
春にお越しの際は桜も勿論ですが、“秀吉と京都”をテーマに史跡巡りも悪くないと思います。お声掛けして頂いたら、参上し同行させて頂きたいと思います(平伏)。もし企画されたら、乗っかる物好きが複数名、現れると思います(笑)。
京極堂さま
そんな私にご丁寧なメッセージをありがとうございました。身の縮む思いです。びっくりしてすっかり酔いも醒めました。
昨日の発掘現場で熱心に質問しておられる方がいらっしゃいました。きっとアマデウス会の皆さんだったらこんな感じなんだろうな~と後ろで聞き耳をたてておりました。
私は日本史は大好きなのですが高校教科書程度の知識しかありません。みなさんの熱い議論を拝読しながら少しずつ学ばせていただきたいと思います。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
秀成の正室は盛政の次女というのからも待遇はよくないですね。
中川秀成は結局、大友吉統の旧領豊後に転封になります。
これも扱いが悪いと言わざるを得ないでしょう。
そしてこの豊後の中川家が僕のイメージに強く残っている理由があります。
それは大友家が耳川の合戦で大敗した責任者と云われている田原紹忍が、大友家改易の後、この豊後の中川家の与力になっていたからです。
田原紹忍の本の後半に出てきました。
そして最後は関ヶ原の合戦の混乱に乗じて、大友家再興を計るも討死します。
個人的には信長ー秀吉ー家康ラインより、こういう地方大名やその家老などの話しが好きです・・・やはり超マニアですね(笑)。
人名でるとマニアックかもですが
内容は
親のかたきの娘と結婚させられた
なので御容赦を。
九州転封は家督相続が許されただけ御の字で、九州の地は秀成が須本(淡路)、宇和島(伊予)、岡(豊後)の中から選んだらしいので
悪いといえるかは「ん~」ですかね。
紹忍?、親賢でなくて、と思って確かめたら同じ人でした(笑)
かすかな、記憶をたどれば、、、中川家ってのは桃山時代を通じて危うい印象ですね。
父清秀が死んだとき、まだ、秀政は15才…当然、後見人もしくは、優秀な家老が必要となりますが、その人物は、叔母の嫁ぎ先、古田重然(後の古田織部)ということになります。彼が利休の死後、御茶頭として茶の湯の大家となっていくことを考えれば、秀政の弟秀成の待遇(領土)はもうちょっと配慮されるても良かったかもしれないですね。
よっぽど、見込みのない後継者であったのでしょうか?
それとも、未知の土地で武者修行してこいということでしょうか?(親心的)
答えはわかりませんwそもそも兄秀政は小田原でもそこまでの活躍はなく、文禄の役では失態を演じて亡くなっています。maybe様がおっしゃる通り、そんなこんなで、弟秀成に家督相続させるだけでも良し的な空気だったかもしれませんね。
聚楽第にバックパスをしてみると、オウンゴールですw
super-meteorは詰まれました。
生前の中川清秀と懇意にしたのは
”摂津における橋頭堡が欲しかった”からだけでしょう。
当時の秀吉は摂津・播磨は早々に抑えて、毛利を攻略したかったハズですからね。
清秀亡き後の若輩の秀政、秀成にはそんな力もなければ、1583年当時の摂津・播磨は既に秀吉の思うままだったでしょうから、もう用無しだったと考えると筋が通るでしょう。
それにしてもあの地図の中川瀬兵衛の謎が残りますね。
聚楽第の構想の時点としても清秀はもう死んだ後のハズ、しかし息子ならあんな一等地に屋敷を貰えるのか?
やっぱりどう考えてもオカシイと思いませんか?