滋賀民俗学会 長谷川博美 7と11の文化
彦根城の7と11
◆対談者
町の図書館で滋賀民俗学会の『民俗文化』検索
してます閲覧したいと読図書館で御願いしまし
たら簡単に『民俗文化』を読む事が出来ました。
◆長谷川
良かったですね。民俗学で卒論を書く場合には
昭和平成の記録民俗学が収録されて参考になる。
◆対談者
いいえ!私は長谷川先生が投稿しておられた
7と11の民俗学的考察論に強い興味を抱いた。
◆長谷川
秀吉が内裏「皇室」から関白宣旨を受け
以下の如く、天正13年7月11日にされた。
関白辞令の宣旨
權大納言藤原朝臣淳光宣、奉勅、萬機巨細、宜令內大臣關白者
天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉
『足守木下家文書』
◆長谷川
また秀吉が内裏「皇室」から関白詔書は
以下の如く、天正13年7月11日に辞令が
関白辞令の詔書
詔、以庸質當金鏡、妥政績於通三、以愚昧受瑤圖、增德耀於明一、夢不見良弼、誰能諫言、內大臣藤原朝臣、名翼翔朝、威霆驚世、固禁闕之藩屛、忠信無私、居藤門之棟梁、奇才惟異、夫萬機巨細、百官惣己、皆先關白、然後奏下、一如舊典、庶歸五風十雨之舊日、專聽一天四海之艾寧、布告遐邇、俾知朕意、主者施行、天正十三年七月十一日
『天正六年以來關白詔勅書』
◆長谷川
7と11は古来より吉数であり七や十一は吉数とし
て中国東洋日本では伝統的に使われております。
◆長谷川
ちなみに 織田信秀は小豆坂七本槍を創作
羽柴秀吉は賤ヶ岳七本槍を創作
◆対談者
ところで彦根市が誕生した年月日を教えて下さい。
◆長谷川
私は李一時に彦根市民東沼波町に住んでいました。
彦根市の誕生 ★
昭和12年(1937年)2月11日に町制から市制を施行。
彦根市の市章誕生
昭和13年4月11日制定
★
彦根市の木こ市の木・たちばな
(ミカン科の常緑小高木)
<昭和50年2月11日制定>
(ミカン科の常緑小高木)
<昭和50年2月11日制定>
★
彦根市憲章の制定
(昭和52年2月11日制定)
★
◆対談者
昭和の彦根は11日ばかり選定されています。
彦根城は井伊氏の城ですから「イイ」かな?
◆質問者
彦根城に「7と11の文化」が存在しますか?
◆反論者
ふん!そんなもん、あるわけないやんけ?
ワシヤ彦根城の事なら何でも知っとるわ!
◆対談者
否定観念に支配され頭硬いですね?歴史城郭
学ぶ人は冷静柔軟客観性が一番重要な事です。
学門や研究に怒気や感情論は論外の要素です。
最初からマチガイと決めつける軽薄さが恐い。
◆長谷川
反論者様?あのうすいません?何で気分を
害されたのでしょうか?彦根城の中心たる
彦根城天守閣床柱自体が7間×11間の寸法で
作られている事は昔から彦根に住んでいる
方々なら彦根城7×11である事はよく知って
おられる訳ですよ。ですから彦根城天守閣
7間×11間は典型的7と11の文化と言えます。
彦根城の大工や工匠は彦根城天守に多数の
墨書を残しており大陸から伝播した建築学
や吉数にはスゴク敏感なインテリ建築家と
考えて良です。彦根山の根本には元来北斗
信仰「北への信仰が都の人々」に存在しま
した北の方向は玄武と言って「亀と蛇」の
シンボル玄武です。つまり玄宮園とは北に
因む民俗学です。勿論彦根城の前身金亀山
『彦根寺』こそが彦根の根本思想と概念で
しょう彦根寺に都から詣でる人々にとって
都から彦根に行く「巡礼の道」巡礼街道が
彦根山に向かって付けられています。彦根
城には鐘之丸などの三国無双鉄壁豪壮堅固
な「鐘之丸」がありますが、実は彦根の人
々は彦根山を聖地として尊崇しています。
ベルとは「鐘」の事なのですがベルロード
と言う商店街の名称は彦根市民の悲願とも
言える「彦根隆盛」の念が込められた絶妙
のネーミング゛真歴史的に秀逸至極の名称
だと言えますね。さて神仙思想という東洋
の思想があり補陀落山と言う神聖な山頂に
は巨大な金色の三重の仏塔「屈強閣」なる
伝説的神秘の楼閣があると東洋では信じら
れています。スバリ神仙思想ですが金色の
亀の上に立つ金色の屈強画なる楼閣こそが
「金亀城」で彦根城天守なのです。彦根城
天守閣は彦根城の西の丸三重櫓、山崎丸等
の軍事実用的な三重櫓とは全く意味が異な
る仏塔を強く意識させる「火頭窓」を多数
配置して塔の伝説の楼閣「屈強閣」を印象
づけるデザイン意匠が入念に工匠が工夫を
重ねてあの彦根城天守閣を建立した。徳川
や井伊家にとり、足利氏の金閣、銀閣にも
勝るとも劣らない楼閣を目指した勿論工匠
や大工の技術者、建築芸術家としての自尊
心良い意味でのプライドはすこぶる高尚で
あったと私は思います。大工として生まれ
たら金閣銀閣にも負けない優れた亀は万年
の不朽の楼閣打ち立てる事が井伊家や大工
の念願であり悲願であった事です。大工の
寸法には吉凶が古来より伝わっています。
魯班尺(ろはんしゃく)は、風水術で使う
道具「風水尺」とも呼ばれ、長さの吉凶を
物差中国、春秋時代の魯班が考案とされます。
彦根城天守床寸法も吉兆を充分に念頭に入れ
た7間対11間の割合で着工したと思われます。
しかも東西に11間と言う事で南の都から来
る人には「朝廷関係」や「豊臣関係」の人
には彦根城天守が荘厳に見える南北栄えと
言われる工法を用いて用意周到作られてる。
ところが東の彦根駅方向から見た彦根城天守
は残念ながら全く「映えない」「栄えない」
彦根駅から見た彦根城天守閣は天守横顔です。
観光客様は本当の彦根天守の見所南側が大手
門である事をしられていない彦根天守は小さ
はない。みかながビューポイントつまり見る
べき展望の位置を全く知らない事にあります。
◆対談者
博士、研究家者、観光客、世の中の全ての人々に
言える事はこの城の鑑賞ポイント見所を全く知ら
ない事にあるんです。そう言う意味で長谷川先生
のUチューブ動画、城郭ビイスタ論は日本の城郭
研究視点において戦前戦後そして現在に至るまで
稀有の城郭展望理論だと私は思っています。現在
先生の動画はたかが1600名ほどの視聴者数様です
が本当は1億動画視聴者があってもしかるべき事。
城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆長谷川
それないじやないです!せいぜい2人3人?
◆長谷川
ちみに尺寸法の曲尺「かねじやく」裏目
を見ると11は吉の文字が使われています。
これは規矩術と呼ばれていて吉田松陰も
佐久間象山への手紙で城郭と規矩術を語
っております。
◆長谷川
大工や建築のお話になりますが、魯班尺
(ろはんしゃく)は、風水術で使う道具
「風水尺」とも呼ばれ、長さの吉凶を物差
中国、春秋時代の魯班が考案とされます。
◆彦根市民様
長谷川先生すごいですね!驚き仰天です!
先生は先例研究踏襲のフオロアー追随者
的な先生ではなく、フロンテイア開拓者
的な発想される本当に優れた研究家です。
以前ブログ『佐和山城天守のいくえ』と
言う記事が話題騒然となり長谷川先生の
ブログ記事がなんと三万人もの人の読者
を記録したんです。スゴイ読者数でした。
◆対談者
前例や先例を踏襲する焼き直し学門は
所詮はコピー物真似、模倣学問の習い
の世界だと思うんですよ。私は気付き
や発見やヒラメキ発想に衝撃を受ける。
▼享保の城測量方法指南
▼玄蕃尾城 ビイスタ展望論
▼安土城 伝前田利家邸ビイスタ