城郭 長谷川博美 基本記録

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近江佐和山城天守の絵画資料の一考察

2020-02-16 09:04:02 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
近江佐和山城天守の絵画資料の一考察
城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆楼閣の正面の基礎知識
禅宗の楼閣や中国の楼閣を始祖として
発達したのが日本の城の天守閣である。
その起源は中国楼閣の鴟尾(しび)とする
説が有力である。東大寺を代表とする
日本の仏殿の屋根の左右に大きく魚形
をした雌雄(オス/メス)の鯱形が天守の
鯱へと発達したと一般解釈されている。

◆天守の鯱鉾が見える方向が天守正面
言うまでもなく天守屋上に存在する
左右または雌雄の鯱鉾が見える方向が
天守閣の正面である事は基礎的常識だ。
◆彦根城天守の栄え「見栄え」はえ
滋賀県民の人がよく御存じの彦根城天守
閣の左右の鯱鉾を見る為に観光客は必ず
京橋方面と玄宮園から鑑賞されるのが常
であ。彦根駅方面から彦根城を鑑賞する
と小櫓と見間違えて彦根城天守に落胆さ
れる人もいると聞くが、言うまでもなく
彦根城天守閣は南北から見て見栄えする
所謂南北栄え(なんぼくはえ)に設計され
ている事は滋賀県民なら誰でも、知って
いる事だ。従って彦根城の軍事的大手門
は京橋方面に設定されている。井伊家の
平素の居館は表門と表御殿の中に営まれ
大手とは呼ばれていない事に留意したい。
彦根城の大手は本丸から見て南に相当。

▼寺院楼閣の意匠火頭窓と多数の波風を
用いどっしりと腰の据わった重厚な風情
を漂わせる国宝彦根城の雄姿は見事だ!

◆佐和山の呼称
この山は佐保山、さほやま、佐和山、澤山
などと古来様々に呼称されている。従って
当該図の澤山とは佐和山城を意味している。

◆古代条里制度の及ぼす方位感覚
古代に整備された碁盤目状の水田耕作面
は伊香浅井坂田でその方位が異なる北陸
線や国道8号線は湖北の条里の影響を受け
て走っている。坂田郡の条里は鳥居本ま
で及び犬上郡部に入ると犬上の条里方位
は全く異なり遠く伊吹山方面を望む方向
を概念的な北として犬上郡の条里が存在
し現在も東海道線、国道8号線、新幹線
もこの犬上条里の影響を受けて建設され
ている。従って彦根城天守の南面北面の
設定もこの方位感覚を基準にしたもので
ろう。
◆多賀大社社頭絵図の澤山城図を考察する。
この絵画を幻想画イメージ図と軽視する事は
学門する身として謙虚に慎みたい。美術史的
に絵画資料的に学術的見地から観察し洞察す
る事、時に別視座に立つ考察が必要であろう。
天守の鯱鉾を左右に見る事が天守の
正面を認識する基礎や基本である。
澤山城絵図にある天守の正面とは何処に
該当するのであろうあうか?これは左右
の鯱鉾を視認する事が基本と思われる。
当該絵図の天守の左右の鯱鉾は現在の
彦根市街方面やもちの木谷方面を正面
とした天守構造の描写である事が解る。
加えて楼閣の中軸をなす唐破風と大入
母屋の方向、もちのき谷方面を指して
いる。この絵画の描く澤山城の建築学
的な見地から見れば大手正面は彦根市
街側を意識して描写されている事が判
明する。しかしこの図が何処の時代の
武将の頃の佐和山城かはここで言及は
しない。伝承によると石田三成屋敷は
もちの木谷、島左近の屋鋪は龍潭寺方
面という彦根方面の伝承は軍事的大手
の再考や時代により大手は変化する事
に留意したい。

◆織豊城郭ビスタ論(放射状縄張線/見通線)
私のブログや私の研究家としての人気は
全くゼロと言ってよい。それでも私の論
が織豊城郭ビスタ論に及ぶ時全国の膨大
な読者がビスタ論を投稿した回だけ異常
な数の閲覧者数を記録している事に驚く。
私は大学者でも著名研究家でも決してない。
実際現実に著者は全く無名で無支持である
現実は否定出来ないが、全国の良識ある人
読者層が城郭ビスタ論を多数読まれている
現実に直面して私は正直腰をぬかしている。
おそらく学芸員学究者が読んでおられるの
だと、想像する。以下の図の如く一連の私
投稿の如く明らかに天守建物と小天守建物
天守に付随する附櫓の平面配置は放射状を
呈しており先の天守建物の大手方面を考察
する一論と大手正面の概念が一致する事が
観察できる。勿論観察する気があるのか?
絵図も縄張図も現地遺構も全く見る気なし
ならば佐和山城本丸に千度行く価値もない。
◆現地佐和山城本丸跡と社頭絵図の比較考察
会頭図にある楼閣部の基壇を図から推定復元
するとA基壇B突出基壇、C遺構が想定される。
それらの基壇と楼閣配置は私の解く
一連の織豊城郭放射状縄張の型式の
系譜に属している事が判明する。また
絵画技巧としても放射状建築群を的確
に描写する優れた画工の技量も看過で
きない。画工は庭園の技巧をも看破し
ている。ありのままを描写とも言える。

↑それは江戸の彦根城玄宮園内
の建物描写にも画工や絵師が放射線状
の作庭技巧が存在した事を認識してる
と言えるもの。絵師ならば、庭の構図
城郭の楼閣配置構図を理解していた事
であろう。なによりも立体的に描写し
いる事に注目したい。
◆佐和山城A基壇、B突出遺構、C遺構の現地写真
先ず天守A基壇を佐和山城本丸に求めよう。厳然
と生々しくA基壇は私達の心を衝撃を伴って現地
見学する人の心を射る!写真は現実を写しだす!
次ぎにB突出遺構を現地観察して写真に写す。
有る!生々しく土塁線から突出したB遺構が
存在する。その向うにC遺構が見えている。
次に余呉城郭研究会の宮本さんがC遺構の
上に立つ。その観察眼は遺構を確実に捉え
ている。遺構から決して目離れしていない。
山中の城址で酒食や雑談や楽しい会話をす
る華やかなハイキング性は全くないものの
遺跡を真剣に見る目は確か向学的学究的だ。
◆第三者に解説継続を断られる事も
さて絵図の秘める謎を全て解説したいが
優れた余呉城郭研究会や米原城歩会面々
から厳しい意見が入った。長谷川先生そ
の続きは我々の受講者の前で詳しく丁寧
に御願いします。先生は自分の価値に気
付いていおられない非常に斬新で進歩的
な研究を安売りする、必要はありません。

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1 コメント

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Unknown (長谷川博美)
2020-02-17 12:39:17
良いね!
一名様
ありがとう
ございます。
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