イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

出会い!

2007-07-18 | 第七章「光と復活体」

幼いころの記憶は2歳ころからなのだろうか?0歳から2歳ころまでの記憶は当然ながらない。母の背におぶられている記憶があるが、それが母との最初に記憶なのだろう。

私の母はカトリック信者であり、私が4ヶ月の時に近くの聖イグナチオ教会で幼児洗礼を授かった。頭に冷たい水を掛けられた記憶、そして目を開けると光が見えた記憶が不思議にある。錯覚の可能性が極めて高い・・・

ただもし、幼児洗礼の記憶が確かであれば、私のこの世での最初の記憶は幼児洗礼かもしれない。

教会で母とミサをあずかった記憶、十字を切った記憶。ぼんやりとした記憶だけがある。十字といえば、母に連れられて高円寺のミッションスクールを訪れ、そこでシスターと十字を切った記憶がある。はにかんで、「父と子と聖霊と・・」と言わず違う事を唱え笑われた記憶がある。

キリスト教、カトリックとの出会いはこうして始まった。ただ高校生になると、親への反発もあり、教会には殆ど行かないようになった。

カトリックとの再会は、今から8年位前となるが、それまでは幼児洗礼の意味は不合理だと思い、反発していた。娘達に幼児洗礼を授けさせることも無かった。

ただ、今となって幼児洗礼を考えると、幼児洗礼の恵みは全てに先立っており、何の不合理も感じない。感謝するのみである。すべては時空を超えてつながっているように思えてならない。

宗教を信じて見えることの一つかもしれない。

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