イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

ある日突然!

2008-08-17 | 第八章「魂と聖霊」

 今年のお盆の休みは、父の実家への往復で内田樹氏の、「寝ながら学べる構造主義」や「私家版・ユダヤ文化論」、「街場の現代思想」を読んだ。久し振りの知的興奮を覚え、最近は近くの本屋さんや図書館で、内田樹氏の本を探したりした。

 特に、「寝ながら学べる構造主義」は、とても判り易く、生き甲斐の心理学を学ぶ私にとっても、とても役に立つ内容であった。ポスト構造主義の影響は、他の勉強をしながら、知らず知らず私の思考の中に入り込んでいたようでもある。

 内田樹氏のブログは一日、10,000アクセスを越え、図書館の本は全て貸し出し中、書店にも沢山ならんでいる。難しい哲学・思想の世界のことが、判り易く、身近に語られているのが人気なのかもしれない。個人的には多くの人が真面目に質の高い哲学的な話題に、興味を持っていることが嬉しい。

 さて、ある本との出会い。師との出会い。同志との出会い。人との出会い。様々な出会いを35歳以降57歳まで頂いてきた。

 ただ、それ以前の人生も含め、ほとんどの出会いは、後から考えると連続的であり、自分の変化は予想できる範囲であったように思う。例えば、内田樹氏の本との出会いも、今の私にとっては想定内の連続的な出来事のように感じる。

 1969年にヒットした、トワエ・モアの「ある日突然」は恋の物語であるが、ある日突然、劇的な出会いがあり、それ以降の人生が全く変わるということは、自分にはないだろうと思っていた。それが、「世話」の35歳から60歳のおじさんの年代になって起こったのである。

 その一つは、1999年の1月の出来事である。この出来事は、今までブログで書いてきたことでもあり内容については割愛させていただくが、そのカタストロフィ的な変化について、今日は述べてみたい。

 暗い感情があったかもしれないが、その出来事の中で、甘美な今まで味わったことのない、暖かい感情(統御感というのだろうか、幸福感というのだろうか)を味わった。プロセススケールが低から高に変わったようである。また、相対的に明るい感情が増えた。抑圧されていた罪責感のようなものが突然消えようだった。防衛機制が弱まったようだ。

 未来や過去に分散していた、混乱した思考が、不思議なほど、「今ここ」に焦点づけられたのが体感できた。

 これは、時間に関する感受性が変化したためかもしれない。過去から、未来に向けて平板に伸びている時間ではなく、別の時間を発見したみたいである。この感覚は不思議であるが、多くの宗教関係の本の中やミサなどの最中で感じられる。一方、いくら鋭い知性の持ち主でも、この感覚を持ち合わせていらっしゃらない方もいるのも事実だと思う。

 自分の生き甲斐の柱のようなものが、荒削りであるが立ち上がり、時とともに、思索を重ねていくうちに、より明確になっていくようであった。真善美により興味がわくようになった。

 私は幼児洗礼でカトリックの影響を受けて育った、日本では珍しい人間であるが、生き甲斐の柱は、カトリックに染まったようだ。

 さて、「それでどうした」と、読者の中から言われそうな気がする。別にそれは特別なことではないかもしれない。脳の生理的現象と考えるべき話かもしれない。しかし、私が変わったことは事実であり、私にとっては、人生最大の恵である。これも事実である。

 そして読者に期待するのは、ポスト構造主義の現代の中で、私のような人間がいることを、「ちょっと、変な経験したようだが、マリオともうまくやっていきたい。」と思ってくれればとても有難い。

<世話3/4>

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