イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

50年前の感情を感じる!

2009-06-10 | 第七章「光と復活体」

 個人的に重大な出来事に出会う。そして、その時は必死になって、いろいろ思考したり行動したりする。ただ、その出来事に対する感情が湧かない。遠くからガラス越しに眺めているような自分を感じる。

 こうした現象は、「生き甲斐の心理学」を勉強することで、意外と身近なところにある現象であることを学んだ。自分の生育史をちょっと振り返ると2-3事例が浮かぶ。その中で、50年くらい前にあった出来事があった。

 6歳の時、近くに住んでいた二人と毎日小学校に通学していた。そして、ある日登校時に、A君が眼の前で途中の通りで交通事故に遇い、その後まもなく亡くなった。A君が突然通りを横切ろうとし飛び出た為の事故であった。

 その出来事を契機に、自動車やオートバイに乗ったりすることが、時に苦痛になることがあった。しかし、若い頃は仕事で車の運転もしたりしていたので、それが生活に障碍となるようなことでも思うが、自分の深層で、自分に対するネガティブな(理性的に考えれば不可解であるが)作用をしていたように思う。

 今でも、A君が事故に遇ったときのイメージは簡単に想いだせる。勿論52年前のことであり、詳細な部分ははっきり覚えていないが、当時小学生がかぶっていた黄色い帽子をかぶり、ランドセルを揺らせ、車道を駈けて横断しようとするA君の姿がある。

 生き甲斐の心理学を9年前から初め、自己分析の勉強も5-6年前から深めていった。それもあり、時々6歳の時のA君の記憶も気にかけていた。視覚的なイメージは伴っても、なにかひとごとのようなところがあった。

 外堀通りの事故の場所を、恐らく何千回も学生の頃は通り過ぎたと思う。ただ、A君への感情はといったレベルで通った。しかし、一回として感情が大きく動き、涙がでるような体験をしたことはなかった。これは、心の仕組みである、防衛機制やアイデンティティの問題からきたのだろう。

 50年後。ちょうど6月のころであったが、ある日、A君が亡くなった場所に来た時、熱い感情が湧きあがった。50年前の悲しみが蘇ってきたのかもしれない。

 倫理道徳的に、自分が間違っていたとか、通常の判断ではなく、その事件を通しての自分やA君への拘りが解消し、何か和解が成立したようであった。

 それで、何が変わったかと答えるのは、なかなか難しいが、より楽に生きられるよう?になった気がしている。

 世の中、理性や行動に関しては、その重要性に気づく人は多いが、自分の感情(本当に自分の身体で感じる感情)の重要性は知られてないように思う。

<感動 2/2>

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