イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

創造性の不思議!

2009-11-29 | 第二章「五感と体感」

 啄木が結核で亡くなるころの話を聴くと、胸が締め付けられるようである。医者に払う金もなく薬も底をついたりする。友人の金田一京助が熱い友情の中でお金を渡した時に流す啄木と妻・節子の涙。若山牧水が、出版社に掛け合い、「悲しき玩具」を出版できるように奔走したこと(啄木の死後に出版されるが)。

 その悲惨な状況の中で、生まれる素晴らしい、詩集「悲しき玩具」。この詩集が生まれる時の一つの啄木の思考として、以前にもあげたが、次の一節がある。

 「人は誰でも、その時が過ぎてしまえば間もなく忘れるやうな、(省略)、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験してゐる。多くの人はそれを軽蔑してゐる。軽蔑しないまでも殆ど無関心にエスケープしてゐる。しかしいのちを愛する者はそれを軽蔑することが出来ない。」

 そして、ほんの瞬間といってもよい、こころの奥から表出する感情を言語化する。

起きてみて、

また直ぐ寝たくなる時の

力なき眼に愛でしチュリップ!

 人は、如何に病んでも、深い意味での自己実現ができるのだと、励まされる。生き甲斐の心理学からいうと、アイデンティティの統合、こころの防衛機制、現実吟味力、この3つが極めて正常に働き、無意識の意識化がどんどん進むという状態なのだろうか。

 以前述べた、イキイキ度(七つのストランズ)が総合的に高い状態でもあるのだろう。そうでなければ、こころに過る感情を正確につかみ言語化などできない。先の一説は、カールロジャーズの到達した一つの境地に似てさえいる。

 これから、4回、啄木の「悲しき玩具」を材料に、五感を考えていきたい。

(「五感から」12/16)

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