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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

逃げたり、逃げなかったり・・・雑感!(防衛機制を考える 5/15)

2011-01-24 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 社会人となってまもない、20歳台後半のころ、父とお酒を飲みながら話したときに、父が、若いころは重責につかないですむので良いなと、しみじみ話してくれたことがあった。高い役職について高収入なのに、そんなものかなと、その時は変に思った。

 そのころの父の年を越した今、その言葉を思い出すと、父の気持ちもよく判る。重責とは、一つの高い理想をもつことでもある。自分が決めただけでなく、外部から求められる役割としての理想もある。その理想と現実のギャップを埋めるための仕事とも言える。

 生き甲斐の心理学でいうと、理想と現実のギャップがネガティブな感情、ストレス曲線なのだから、責任ある仕事とは、当然ストレスが大きい仕事なのだ。

 40歳台、50歳代になってくると、仕事でも、家庭でも、その他の社会活動でもそれなりに、責任が重くなる。そして、その責任をどう処理するかが重要になる。

 さて、こころの14の防衛機制のなかに、逃避という防衛機制がある。テキストを見ると、現状が苦しいので、他のものに心的エネルギーを出して現状の苦しみを回避することとある。

 自分の成育史の中で、この逃避はどうだったのだろうか?学生時代は、試験が近くなってくると、無性に映画や本を読みたくなったりした。厳しい先生の授業を投げてしまう。先輩から三理一哲(心理学、倫理学、論理学、哲学の単位のこと)は捨てたら・・・で逃げてしまったことも。逆に、逃げては終わり(留年になってしまう)だと、背水の陣で勉強したこともあった(背水の陣とは良く言った言葉で、私はある時、一度落した科目で100点をとって学友から尊敬された。)

 しかし、責任ある、40代、50代になってくると、逃避は結構人生そのものに暗い影を投げかける。仕事でも家庭でも、致命的な結果を産んだりする。

 何で、あの時逃げたのか。今となって考えると、それなりの背景があることに気づく。自分で自分がかわいそうになるような成育史上の背景、無意識の世界の傾向もあったりする。

 ひょっとすると、背水の陣で何とかなったかもしれない。そんな風に想ったりもする。しかし、もし、逃げなかったら、どんな人生になったか?そんな質問は基本的に回答がない。吉もあれば凶もあろう。神のみぞ知るであろう。

 逃避自体が悪いか、否かはケースバイケースで何とも言えない。ただ、現実に自分が逃避しているのかどうかを知ることは、判断力を保つ上で意味があると思う。

 こころの防衛機制を考える 5/15

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