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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

五感豊富な梅雨が好き!(愛の記憶 4/10)

2011-06-04 | 第十章「今ここでの恩寵」

 ≪自分以外の他人は驚きの対象≫は、深層心理の世界では常識のようである。その反対に≪他人から見れば自分も驚きの対象≫も常識なのであろう。

 前置きが少し長くなったが、私にとって梅雨は、世の常識に反して、好きか嫌いかと問われれば、どちらかというと好きなのである。ひょっとしたら、5-6歳のころの愛の原型と関係しているかもしれない。

 考えてみれば、梅雨の日は五感豊富なのである。雨粒の音、雨の臭い、外を傘をさしてあるけば、肌に触れる雨粒や冷たい風、視界が悪いが、それがかえって他の四感を鼓舞するようでもある。長靴の独特の感触は、自分と他の境界を意識させる。

 さて、昨日から五感・体感について述べているが、20世紀の最大の詩人と評されている、リルケの随筆をたまたま、読んでいたら、次の一節にぶつかった。1919年、リルケ44歳の時の随筆の一節である。ちょっと長いが引用してみる。

≪アラビアの詩は、五感がみな同時に均等にはたらいて、それを生み出しているように思われる。そんなアラビアの詩を研究しはじめた時、最初に気づいて驚いたのことは、現代ヨーロッパの詩人は、外界のしらせをもたらすこれらの感覚を、いかに不均等にばらばらに利用しているかということだった。五感のうちでほとんどただ一つのものだけが、つまり視覚だけが、世界の重荷をいっぱいに積み込んで、たえず詩人を圧しひしぐのだ。それに反して、散漫な聴覚が詩人に大してなす寄与の、すでにいかに乏しいことか。・・・一部略・・・その他の感覚の鈍感さなどは論ずるまでもない。しかし完全な詩というものは、五つの感覚という梃子を同時にあてがわれた世界が、一定の相のもとで超自然的な平面の上に現れるという、その条件が満たされた時にのみ成立しうるのである。その超自然的な平面こそ詩の平面にほかならぬ。≫(リルケ 世界文学大系53 筑摩書房421ページ)

 ちなみに、この随筆では、リルケが学生時代に自分で蓄音器を紙など身近なもので丁寧に作った経験で音について書いたもので、リルケの個性の一面を教えてくれる。

 例年になく5月から梅雨になった。梅雨を嫌う人も多いが、梅雨の時期、もう一度五感をいろいろ楽しんでみたらどうだろうか。

愛の記憶 4/10

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