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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

ケンカって何だろう?!(愛の記憶 8/10)

2011-06-08 | 第十章「今ここでの恩寵」

 一番はじめに、ケンカをしたのはいつだろう。悪ふざけはあったが、本格的なケンカと思われるのは7才のときのアラスカでの経験であった。ある日、私が石を投げて傷つけた仕返し、を助っ人と二人で家への帰り道で待ち伏せされ、ボディブローを受けた。

 しかし、身体のケンカは、どちらかというとサバサバしていた。勝敗が決まれば、それまでである。

 さて、10才くらいになると、父親と回り将棋のルールでぶつかり、せっかくの夏休みの旅行先が別の意味で思い出深いものになってしまった。ゲームのルールをめぐり、父も私も譲らず口ゲンカのあとで怒られた。

 その後、記憶に深く刻まれるようなケンカ(心理的な諍い)は、いくつかしたが、13才のころに中学校での放課後に私が掃除の時間、弁当のゴミを教室の床に捨てたという証言があり、A先生に次の日呼び出され、激しく詰問された。必死に濡れ衣であることを涙ながらに主張した。

 結果はB先生はなかなかの教育者であり、さらに追い詰めることもなく、私の言うことを最終的に信じ不問にしてくれた。しかし、犯人とされなかったが(きっと、そういうことがありえる私であることを熟知していたのだろう)、後味の悪い経験であった。

 ただ、≪何事も話せば解ってもらえる≫という、どこか誇大な自己概念を得ることになったのかもしれない。

 そして、その後の人生を振り返ってみると、実際に≪話せば解る≫という経験は全くないとは言わないまでも、かなり難しいということが分かってくる。そして、「生き甲斐の心理学」を学んでいる今では、≪話して解るのは、かなりラッキー≫だと思っている。

 カールロジャースの人格形成理論の12番目に次の命題がある。

12:有機体によって採択される行動のし方はほとんど、自己概念と首尾一貫しているようなし方である。

 自分が自分と意識している、自己概念(例えば、私は≪真面目≫でゴミを絶対に学校でゴミ箱にすてる)にあわせて行動(主張したり)をし、実は無意識にゴミをすてたという潜在的知覚が、仮にあっても、それが意識化できない。

 こうした人間が二人対立すれば、事実がどうかというより、互いの自己概念を如何に守るかという闘争になってしまうのだ。

カールロジャースの命題12や命題11(先の否認の傾向などを言った命題)を思い出し、矛先を引っ込める人はまず居ない世だが、この理論を知っていると、へんに自分を責めたり、人を責めたりしなくなると思う。

愛の記憶 8/10

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