イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

モチベーションは「世のため人のため」(>「自分のため」)から!(技能 10/10)

2011-10-09 | 第四章「愛とゆるし」

 辛い仕事をこなしていくとき、やはり何かで自分をモチベートしたいものである。

 若い頃、社会人になってしばらく、1980年代になったころだろうか、日本もバブリーになってきた。そのころまでは、日本は野武士的で、何か「志」とか「名誉」などを大切にし、目で見える物理的な「褒美」でモチベートすることに、ちょっとした躊躇いがあったように感じる。

 それが、それ以降、目で見える物理的な「褒美」が幅を利かせはじめてきたように思う。ただ、私は思うのだが、ヒトは目で見える物理的な「褒美」(お金とか、地位とか)で本当にモチベートされるのだろうか?

 さて、この本当のモチベーションを生き甲斐の心理学でいう、熱意(やる気でも、他人に対する関心でも・・)の元を考えた。それは、自他の否定や肯定に関係がとても深いようなのである。

 自分が自他肯定(世のため人のため、そしてちょっとは自分のためという感じ)の領域にいるとき。その時が一番輝いている。理論的にもそうだが、自分の成育史を振り返っても実感できるのだ。

 誕生してから今日まで、①自己肯定・他者肯定 (世のため人のため) ②自己肯定・他者否定 (自分だけのため) ③自己否定・他者肯定(へつらいモード) ④自己否定・他者否定(破滅モード) の4つのどの象限にいて、その時どうだったかを調べるのだ。

 例えば小学校6年生のころ、自分はどうだったか。自他肯定の象限にいることが多かったように思う。ただ、時に友達との関係で②、③の象限にいたり・・・それが何か、とても鮮烈な思い出となっている。

 中学生になると、進学校であったためか、②、③の象限が増えたように思う。競争を煽るような環境もあったようにだ。ただ、それは心の奥の、何か燃えるようなものに水をさすような気が後から考えるとする。

 そんなふうに、ずっと時間とともに何処の象限に自分がいたかを振り返ってみる。ついでに、そのころ自分は輝いていたか否か、そんなことも考えてみるのだ。私は、やはり自他肯定(世のため人のため、そしてちょっとは自分のためという感じ)の時が輝いていたように思えてならない。

 最近、内田樹氏の「最終講義」を読んだが、同じような発言をされていた。

 イキイキと生きる上で、自他肯定の練習、自他否定からの解放。これは、お題目でなくて、身についたクセのようになれればと思う。

 しかし、この練習はどのようにやるのだろうか。哲学・宗教の知的知識も大切ではないかと思うが、もう一つ、天国を垣間見るような時を日常の中に持つことも大切だと思う。

 私はカトリック(キリスト教)であるので、日曜日には教会でミサを預かることが多い。その時に讃美歌を歌ったりする祈りの時を持つのだが、それは私の天国を垣間見る時である。ただ、私は教会だけでなく、比較宗教に興味を持っているので、神社やお寺での様々な儀式・典礼をとても大切に考え、こころを込めて参加する。

 今でも思い出すのは、延暦寺の早朝に座禅を組む機会をいただいたが、その時の早朝の静寂の中で響く、読経の声明は実にすばらしかった。今、新平家物語を読み進めているが、様々な出来事を知れば知るほど、あの時の声明の素晴らしさが輝いてくるようである。

 今日はこれくらいにしたいが、伝統宗教の儀式・典礼は、このような見方をすると、非常に優れた経験的な叡智がいたるところにあり、私にとってはスマホより楽しい。ちょっとへんだろうか?

 技能 10/10

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