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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

こころの傷に、ちゃんと向き合って幸せ!①(受容の不思議 1/10)

2011-10-10 | 第四章「愛とゆるし」

 東日本大震災で、こころのケアが話題になっている。本当に大変なことだと思う。しかし、ヒトは思わぬ時に、こころの傷を負う。そして、一見元気なので周りの人も気にしないことも。私の場合も、小学校の1年、6歳の時に幼友達が一緒に通学しているときに交通事故で亡くなった。

 その後、普通に生活して、特に目に見えるような支障がなかったにせよ、その出来事による隠された感情の影響か50年以上も私を苦しめた。運良く、ユースフルライフ研究所のU先生に出会いや学友のおかげもあり、臨床心理学の知識を得て克服できたのである。後で考えるとなんだそんなこと。というような感想なのであるが(私にとってはとても意外)、知識なくして解決は恐らくなく、本当に感謝している。

 生き甲斐の心理学の研究や普及活動も、そんな経験をバックに、おせっかいと言ってよいほど拍車がかかっている。臨床心理学の知識があると、こんなに良いんだよと叫びたいが、だいたい臨床心理学の話題は避ける人が多いので残念。

 こころの傷が、どのように作られ、どのように解消するか、皆さんの参考になればと思う。亡くなった、A君をしのびつつ書いてみる。この話は、既に何回も聴いたという方もいらっしゃるかもしれないが、最近の新しい解釈もあるので、楽しんでくださいね(また変わるかもしれないが?!)。

 さて、初めてみよう。舞台は1957年春である。

 1950年代後半は、日本がまだ貧しかった時代である。ただ、今と違って、街には戦後の空き地や防空壕跡などがあっても、子供が沢山遊び回っていた。私の住んでいた新宿区曙橋付近。近所には幼友達や祖父母の家があり、今と違って貧しいながらもとても密に楽しく暮らしていた。

 電話やお風呂は、隣の祖父母のところを借りたり、東側のお隣さんに、壁を超えて窓からお邪魔したり、夜中に「月がとってもあおいから・・・」と歌手さながら心地よく歌って帰る方の声を子守唄としたり・・

 そんな中で、私はB小学校に入学する。幼稚園から同じ名の小学校に進級した。進学で有名なその小学校に通う友達が近くに何人かいたのであるが、母の友達関係もありA君とC君と一緒に、登校することになったのである。

 私は当時、身体が小さかったが、A君は体が大きく3人の中ではリーダー的であった。C君も身体は大きかったが、おとなしい性格であった(私は性格もちょこちょこしていて、リーダーシップはなかった)。

 登校は、外堀通りを四谷方面にむかって3人で向かった。わんぱくの3人(当時のことを考えると、子供はみな、今から考えるとワルであった)のうち、A君は、四谷方面に向かう中で、外堀通りを横に走って渡ることにスリルを覚えたのか、先頭を歩きながら、ぱっと道路に飛び出し横断する。そして、次にC君、私とぞろぞろ仕方なくついて渡る・・・そういう遊び(A君にあっては)を繰り返していた。

 C君や私は、それが嫌であったが(考えれば一種のいじめに近い)、リーダー格のA君に頭が上がらないところもありついていってた。そして、ある朝、車やオートバイが近くの信号で青になり、こちらにどっと向かっている時、道路に飛び出した。はっと、息を飲んだ(C君と私は)。A君は全力で走ったが、間一髪で、オートバイに接触して倒れる(無残に血を流すとかはなかったが、スローモーションのように倒れる映像はこころに刻まれた)。黄色い安全のための帽子を被っていたが、A君は倒れると全く動かない。

 事故直後、C君と私で小学校に駆けていき、職員室で先生に事故を告げたが、表現力のせい、あるいは単なる悪ふざけと考えたのか(当時はそんな時代だった)取り上げてもらえなかった。

 その後、残念にもI君は亡くなってしまったが、A君のお母さんと悲しみの対面(カンズメの桃が出された)があったりしたが、仕方がなかった、残念だったねで時は過ぎていった。

 これだけのことであるが、後日、不安(その時々の)でストレスが貯まると、心臓が痛くなったり(不安神経症なのか)することがあった。また、車やオートバイへの興味がぱったり無くなった。大学生になってから、友人が免許をとるので、自動車転練習所に通ったことがあるが、何故か成績が悪く取得をあきらめたこともあった。

 車の免許は、社会人になるとき、奮闘努力して最終的に取得したが、6箇月かかり、やっと手にいれたものだ。運動神経が悪いわけではないが、不思議に好きになれなかった。その後、仕事で随分車も運転した。しかし、車を使わないくて良い職種になると、さっさと車から遠ざかった。

 その原因は、6歳の時の事故に関係していると、うすうす判っていたが、特に心理療法家に相談に行くなど考えも全く及ばず(今だったらすぐに行くだろうが)、ときは流れていった。

 3回くらいで、この話(こころの傷の回復まで)をお話したいので、今日はここまで。

 しかし、1950年代は古き良き時代だったと思う。東京タワーができ、皇太子殿下のご結婚。巨人や西鉄の野球。お相撲もたのしかった。コクリコ坂からをはじめ良い映画が沢山ある。

 一方、私の生まれた1951年は、電力使用量が今と比べると28分の一(根拠)、コロッケは食べられても、とんかつは夢。そんな時代でもあった。感染症をあり、年寄りは60才位で亡くなるのが当たり前。貧しかったが、ワクワク感はいまより数段上だったようだ。

 日本の将来を危ぶむ声も多いが、貧しくても、考え方一つで幸せがあると思う。

受容の不思議 1/10

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