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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

こころの傷に、ちゃんと向き合って幸せ!最終回 (受容の不思議 3/10)

2011-10-12 | 第四章「愛とゆるし」

 昨晩は、DVDを借りて「神々と男たち」を観た。カトリックの観想修道会(トラピスト会)がアフリカのアルジェで遭遇した実際の事件を題材にした話で、なかなか良かった。監督もカトリック。俳優も実際にトラピスト会の修道生活を実際に1カ月過ごされたとのことで、カトリックの私にとっては全く違和感のない作品であった。

 原作に忠実とされるタイトル「神々と男たち」の神々は、一見多神教的であるが、三位一体の聖霊の観点、あるいは旧約聖書も多神教の時代もあったという説から考えて、そんなにへんでもない。

 仲間を愛し、敵を愛し(これは感情的でなく理性的な愛)た、男たちの愛そのものの純霊を神々としたとも。

 さて、私のA君の交通事故死のショックからの解放のお話の最後として、何故、解放されるに至った、もっとも重要なポイントを考えてみたい。

 それは、実はたまたま観た「神々と男たち」と共通する何かがあるのだ。こころの解放に至るには、傾聴の技術、人格形成論の理解、病理論の理解、治療目標の設定などもあるが、私は最も大事なのは人間観であると思う。

 お医者さんでも、看護婦さんでも、介護者でも、私たちが患者の立場であれば、冷たく病気や病理を観察する人ではなく、あたたかい人につきたいと思う。

 あるいは、自分の愚かさやダメさは自分が一番知っているけど、それでも尚、自分は今存在し愛される何かがあると信じられるかということかもしれない。

 生き甲斐の心理学では、「人の身体は神の神殿」というパウロの考えを大切にしているが、実にこれなのである。

 通常、理念は絵に書いた餅になることが多い。そんな戒めもあり、私はこの人間観を、「嫌いな人を好きになる人間観」という、ちょっと世俗的に捉え直している。

 例えば私がFさんを嫌っているとしよう。Fさんは凶悪犯人かもしれないし、仕事場で出会う相性の悪い人かもしれない、場合によれば自分でもよい。

 通常、Fさんを避けることが多いと思うが、Fさんが大切なお客さんであったり、患者さんであったり、自分であったりで避けることができない場合もある。

 そんな時に、、「嫌いな人を好きになる人間観」は二段階で物事を考える。ひとつは、Fさんの本質は愛そのものであると仮定(できれば信じる)する。しかし、自分が嫌いという感情がある限り、その原因も確実にある。それは、Fさん自身の何らかのフィルター(身体や成育史)が原因かもしれない。あるいは、嫌いという感情を起こす私のフィルターが原因かもしれないと考えるのだ。

 この考え方があって、初めて、嫌なFさんにちゃんと向き合え、そして、幸運であればFさんを好きになることができる(感情は神秘的な領域のように考えるので、ならないこともあると思うが)。

 私の、いじめっ子のA君の事故を喜ぶ感情。そして、それに対する幼い罪悪感。そんな、ちょっとしたことが、50年の長きにわたり人を苦しめる。時には、時代背景もあるが混乱の局地になることも。

 「嫌いな人を好きになる人間観」をもった人が、傍らにいて、支援してくれたら・・それが、今の活動に繋がっている。

  受容の不思議 3/10

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