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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

<愛の孤独感>を思索してこころの健康を!(愛のトライアングル 3/10)

2011-11-01 | 第五章「和解と平和」

 沸き上がる感情を意識するということは、意外と難しいことである。「生き甲斐の心理学」を学び修行(無理なく、楽しくがこころの修行だが)していると、少しづつ判ってくる。感情は観念ではなく、自然に沸き起こってくるものである。え、こんな時にこんな感情?と驚くことも。

 修行といえるかどうか判らないが、映画を湧き起こる感情を経験する場として、私は大切にしている。市川海老蔵さんが主役の「一命」を一昨日観たが、そのときの感情は、単純ではなかった。「はやぶさ」のような爽やかな感動もなく、「コクリコ坂」のようなホンワカした心の動きもなく、日本人の文化(言霊文化、言論の自由が難しい文化)の中での閉塞感といったらよいか悲しみといったらよいか・・・それが何を意味するか。恐らく、しばらく言語化できないかもしれない。あと一〜二回観ないといけないかも。

 さて、愛のトライアングルとして、<愛の孤独感>を考えてみたい。暗い感情としての孤独感は感情である。そして、孤独感は、日常のほんの些細なところに沸き起こったりする。

 「生き甲斐の心理学」では、成育史の中で<愛の原型>(自分が愛されていると実感できるシーン)が生まれ、それを充たすことができれば良いが、満たされないと<愛の孤独>を感じてしまう。そういう説明がある。

 例へば、幼い頃の<愛の原型>があるとする。それが何故<愛の原型>であるかは、実は、本人の中の愛の解釈に依存している。そして、その解釈は幼いころの解釈で、両親からの刷り込みだったりするのだが、不思議に大人になってからでもその<愛の原型>が影響を与え続ける。

 暗い感情は理想と現実のギャップから生じるという理路を考えると、<愛の孤独感>は<愛の原型>に影響をうけた理想と現実のギャップから生じていることになる。<愛の孤独感>に苦しめられるのなら、ひとつには<愛の原型>が極端にいえば凶器になっていることもあるかもしれない。

 私は、この10年くらい、こころの健康のために時々自分の<愛の原型>についてのんびりと思索した。その結果、自分が愛されていると実感されるシーンは、少しずつ変わってきたようだ。これは、刷り込みによる条件付きの愛だったかなと反省したりである・・・ついでながら、<愛の原型>を思索する場合は、バックにしっかりした<考え>(宗教や哲学)なようだ。

 自分の経験からすると、自己否定・他者否定を産みがちな<考え>ではなく、自己肯定・他者肯定を産みがちな<考え>が心の安定には良いようだ。

 愛のトライアングル 3/10

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