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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

出雲大社で死と再生を考える!(ゆるし2/10)

2012-08-14 | 第四章「愛とゆるし」

先日13日に出雲大社を20年ぶりに訪れた。「神話博しまね」がちょうど開催されていて、すごい混雑であった。この20年で、考古学的な発見が相次ぎ一挙に歴史の世界でも主役に躍り出た感じである。隣の古代出雲歴史博物館の展示は、実に迫力があった。神殿の巨大な支柱のレプリカ、大量の銅劍や銅鐸(もちろん国宝)。



ただ、私の興味は、春に行った大国玉神社(東京 府中)の「くらやみ祭り」で感じた、禊と祓いの思想の大本である出雲大社に対する興味である。罪と罰、死と再生の物語は、先に行った奈良の東大寺のお水取りや、やはり大国主の尊を祀る大国玉神社の「くらやみ祭り」のモチーフに似ている。

大国主の尊というと、やはり因幡の白ウサギを思い出す。久しぶりに橋本治訳の古事記を読んでみたが、なかなか味のある話である。うさぎがサメをだまし、丸裸にされてしまう。それを大国主の尊の兄弟の神々が来て、海水と風にさらすという知恵を授け、ウサギは苦しむ。それを、大国主の尊が助け真水で洗いガマの穂で癒すという話であるが、ウサギのとりなしにより大国主の尊は他の兄弟の神々も欲していたヤカミ姫と結婚できることになる。

イザナキとイザナミの話の中でも海水での禊と祓いの思想がでてくるが、考えてみると真水で洗うというのは、さらに奥が深い。ちなみに、今回出雲大社に参拝したが、参拝の仕方について拘ってみた。禊をして、神殿で参拝する。出雲大社は徹底しているように思われる。まず、出雲駅の近くの一の鳥居。それから二の鳥居、さらに祓社があり、そこに参拝して清める。美しい池などもあり心身ともに爽やかに。次に清めの橋を渡り三の鳥居をくぐると松の参道。さらに御慈愛の御神像やムスビの御神像。手水者で手と口を清め第四の銅の鳥居。それから、拝殿で二礼四拍手一礼。

罪悪感をはじめ、強烈な暗い感情はマイナスそのものの感情と思いがちであるが、古代から光と影のように神秘的な世界(この場合は出雲大社)を介し、マイナスの感情が統合された幸福感へ向かうことを表しているといえる。私はカトリック信徒であるが、日本古来の神道でも伝統的な仏教でも、同じような死と再生の物語が存在することに驚く。

最近、ターミナルケアへの対応として医療チームとして、医師、看護師、臨床心理家のグループが活躍する話を時々聞くが、欧米では宗教家が入るのが定番だと聞く。魂の問題を扱うのはせいぜい100年の歴史の臨床心理より宗教の世界のがふさわしい。ただ、日本ではキリスト教は別にして、葬式のイメージが強すぎる仏教は大きなハンディがあるように思う。

ゆるし 2/10