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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

神仏との出会い!(感情から観たゆるし 8/10)

2012-09-10 | 第四章「愛とゆるし」

 不思議な出来事を通し、宗教的経験をすることは、今の世でも結構あるようだ。日本でも「牛に引かれて善光寺まいり」の諺があるように、祖先たちも不思議な経験しているし、気をつけていると今でも時々耳にする。ただ、世の中、先日観た「ルルド」という映画のように、神秘的体験は他人が蚊帳の外に置かれるので、当事者には意外と冷淡であることが多い。

 また、科学的に説明がつかないので、当事者の声も、だんだん小さくなっていく。しかし、科学の対象は極めて狭く、例えば死後の世界とか、何で今私がこの世にいるのか・・・など基本的な問いかけに回答を与えることはできない。それでいいことも多いが、やはり、見通しの悪さが悲惨を産む現実もあるようだ。

 だから、科学を過剰に意識する必要はないとも思うが、学問の世界はかなり保守的で、宗教現象を扱う心理学でも不思議な現象は脳の生理的現象とあっさり片付け、論理的に説明を求められたりする。

 私が経験した40歳台のある日のできごとは、そういった意味で脳の生理的現象と片付けられる部分もあるかもしれない。ただ、感情面で、暗い感情の世界から至福感もある明るい感情の世界に一挙に変ったり、信じて見える世界にまつわる現象を、より心理学の知見から客観的に説明できるのではないだろうか。

 自分の限度を越えた難問に向かう。それを苦悩というとすれば、継続的に苦悩の中にいると、だんだん自分の感情も判らなくなっていく。周りが敵ばかりというか、自分も敵というか、そういう状態にいつのまにかなっていく。精神的に発病するメカニズムに似ている。

 そんな、ある日、正月の三ケ日のことであった。母の家に親戚が集まり、恒例の正月のお祝いをしていた。お屠蘇気分にもなった昼近く、母が「イグナチオ教会が、建て直されて、立派になったから、一度行ってみたら?」と呼びかけてくれた。何年も通っていなかった教会であったが、そういわれると、ちょっと見たくなり、妻といっしょに散歩がてらにでかけた。

 四谷のイグナチオ教会では、外国人向けのミサが行われていた。入ると、後ろの席のほうに席をとった。そして、聖体拝領の時間となる。私は一応、信徒であったが、お酒を飲んでいるし、また、自分に負い目のようなものがあり、聖体拝領の行列に並ばなかった。

 ところが、どういう訳か、司式のお手伝いをされていたブラザーが、後ろの方ですわっている方を気遣ってか、神父に後ろの方で聖体拝領をするように依頼し、何と神父が私のそばに近づいてきた。それでも、私は座り続けていたが、こんどは妻が「あなたは信徒なのだから、受けたら・・・」と背中を押した。それで、半分錯乱しながら、聖体拝領(パン)をしたのだ。

 パン(ホスチア)をいただくと、何かめまいのような感じがした。錯乱感が、今ここに収れんされていくような体感を得た。そして、その時に味わった至福感は生涯忘れられない。残念ながら、その時に神の姿や声を聴いたことはなかったが、至福感の中で、自分がゆるされているのを体感した。

 この出来事があってから、キリスト教関係の本を読みなおしたりするようになったが、今まで納得できなかった教理など、ストンと理解できるようになっていたのは驚きであった。そして、それ以降カトリック信徒への道を歩む。

 さて、もう一度<思考・感情・行動>から、自分の体験を考察してみたい。意識している思考は、明らかに聖体拝領を受けるなというものであった。しかし、行動面で、不思議な環境づくりがあって、一種の行動療法のように聖体拝領をする。さらに、感情面では意識に反する行動もあり錯乱感まで覚える。

 そして、昨日述べたように、テレビで見たキリスト教の三位一体の聖霊の知識がどこか、自分の無意識の中ではたらいたかもしれない。

 直接的な私へのメッセージとして、この聖体拝領を受ける中、無意識の世界から湧き上がってくる「神のゆるし」の思考で、今度は錯乱感が対極の統御感に一気に変換していく。そういった<思考・感情・行動>の連携があったようだ。

 私にとって、この体験は、かなり大きな意味があり、それから、心理学の勉強をはじめたりで、人生の舵を大きく変えたように感じる。特に、当時の難問は、大きな心理的変化が好影響となり、いつの間にか問題も解消していく。逆にいうと、もし、この出来事がなければ、その後どんなふうになったか、考えるだけでも恐ろしい。

 感情から観たゆるし 8/10

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