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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

拒否する世界に受容れられる、現代の神話!(自分の中の神話 5/10)

2012-11-16 | 第七章「光と復活体」

 今朝は爽やかで、朝早く起きて散歩をした。多摩も、縄文時代の海進の時期は、フィヨルドのように大河が近くまできていたようだ。この写真は、高台にある神社から見下ろしたもので。今は、低地のほうは町や道路であるが、縄文時代は大河だったかもしれない。

 そんなことを想像したり、道端にあるお地蔵様(ひょっとすると、昔は道祖神だったかも)を拝見したりし心地よいひと時を過ごさせていただいた。

 さて、縄文時代ではなく今ここにでも起こる、現代の神話につてい想いを馳せている。通常の分別や常識の世界ではなく。無意識からくる、奇妙な世界である。奇妙としっても、レヴィ=ストロースなど最近の研究で、注目を浴びているが。

 この夏、有島武郎の「一房の葡萄」をいろいろ味わった。傾聴の問題、性格形成理論などで思索し、とても楽しい勉強だった(興味ある方は、左上で「一房の葡萄」でこのブログを検索すると10以上の関連記事が出てくる)。

 実は、私にも7歳の時に、同じようなキリスト教文化の女教師に出会い、本質的に似た経験(これも「愛の原型」で検索すると出てくる)をしたので、この小説に人一倍興味を抱くことになったのだと思う。

 実際の神話公式は数学の式を使っているが、意図することは難しくなく、次のように表現できそうだ(時間の無い方は、読み飛ばしてください)。

 例えばAさんがいるとする。AさんはXという機能とか属性をもっている。さらにBさんがいて、BさんはYという機能・属性をもっている。

 これが、ある事件を契機に変換され、BさんがXという機能・属性をもつようになる(Bさんがある意味Aさんの世界に入る)。さらに、Aさんが消え(いなくなり)Yが形を変えて残る(AとYが反転する)。

 これを、一房の葡萄で考えると。女教師(A)は博愛の心(X)をもっていた。僕(B)は嫉妬心(Y)を持っていた。こうした中で、僕はジムから藍色と洋紅色の絵具(嫉妬の象徴)を盗む。そして、話が進んでくるが。最終的に、僕(B)は博愛の心(X)をちょっと持つことが出来るようになり、女教師(A)は、会えなくなる(消えてしまう)。そして、残されたのは一房の葡萄(Yが形を変えたもので、ちょうど藍と洋紅色を混ぜたら紫になる!)の思い出。

 私の7歳の時の、言葉の通じないアラスカでの出来事も、この小説にとても似ている。

 女教師(A)は博愛の心(X)をもっていた。僕(B)は英語が話せない劣等感(Y)を持っていた。そして、女教師が出した色紙に僕が日本語で答える。その思いがけないリアクションで話が展開する。最後は僕(B)は博愛の心(X)を持ち、クラスに受け入れられるが、女教師(A)は一週間もしないうちに私の転校で、会えなくなってしまう(消える)。そして、転校の際にプレゼントでもらった、緑色や赤色のチョーク(Yが形を変えたもの)が忘れられない思い出となる。

 結構、頭を使う公式であるが、二つの話が公式通りに読み解くことができるようだ。

 今熱い思いをもって振り返っているのだが、私の自分なりに無謀と感じたリアクションも、小説の倫理道徳を無視したリアクションも、変化のために、とても大切だったんだなと思う。いくら幼いからといえ、成長するために清水の舞台から飛び降りる行動をしているのだ。それが無ければ、何も変わらなかっただろう。

 そして、盗んだことに常識的に怒ったり、日本語で応えたことに過剰に反応しなかった現実吟味力をもつ人の存在が気になった。人はどういう時に成長するのか。線形な判断だけでなく、非線形な対応も大事なのだ。

 とはいえ、恵まれた体験を私はしているのに、逆の立場にたたされたとき、常識に囚われ変に裁いてしまった苦い経験を思い出した。

    自分の中の神話 5/10

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