感情とひと言でいうが、その実態は何ともつかみにくい。
悲しいとか嬉しいとか言うときも、本当に感情が湧いているときもあれば、ステレオタイプの言葉を使っただけということも。
心の防衛機制という仕組みのために、感情が意識に登らないということもある。
ふっと湧いてくる感情は宝である。昨日母校の学生さんから挨拶をされた時の違和感。それを思索すれば、自分にとって大きな意味があった。
昨晩は、一本の電話があり、甥が受験で合格した連絡であった。明るい感情は、人生の中では少ないというのが定説だが(ゲーテによると、70余年の人生で、明るい感情は約一ヶ月くらいとも)、その貴重な明るい感情を味わった。明るい感情と対話してみると、もっと大事にしてあげなければというサインのようにも思える。
さて、一昨日から、一日の歩数をカウントすることにした。運動不足で健康のために10、000歩/日を確保したいと思ったからだ。こうして、運動に気を使う人は私だけでなく回りにもいる。しかし、自分の湧いてくる感情に注意を向け、役立てようという人は殆どいないようだ。臨床心理学を学んだ人とか、限られた人だと思う。
湧いてくる感情。感情のマンダラとも言われ、多様であり人それぞれである。私はこの勉強を始めてから、映画を見たりするときに自分の感情も鑑賞する。胸がジーンとしたり、瞬間的に感情を感じたりする不思議さを味わったりする。自分の感情がどうなっているか、意識しないと判らないもののようだ。
感情は明るい感情だけではなく、見たくない感情であっても、本物の感情は意味がある。倫理道徳とは関係なく湧いてくる感情。それと対話していくと、その背後にある自分の本音が理解できた貴重な体験すらある。
湧いてくる本物の感情を善悪で判断する人もいるが、私は、そうではなく感情はセンサーと同じく中立だと思う。そして、感情そのものは、すべて美しいと考えても良いと思う。そして、感情との対話から、大きな示唆が得られ人生の彩が変わる経験もした。
歩数カウントと同じように(笑)、一日一回は自分の感情を振り返ったらどうだろうか。
本音と感情 4/10