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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

私を理解して欲しい!(旅と真善美② 3/10)

2013-09-10 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 理解という言葉は、なかなか難しい謎の言葉である。

 幼い頃、私はよく泣いたりしたが、何かうまく表現できない自分を泣くことで表現するというか・・・つまり、私を理解して何とかしてくれという意思表示をしていたようだ。

 泣くという行動の背後には、ある種の感情が隠れている。生き甲斐の心理学では、理想と現実(意識される世界も無意識の世界もある)のギャップが感情ということになるので、理解してくれということは、行動だけでなく、感情も思考も含む全人格的なことなのだろう。

 めったに泣いたりしない大人になってからも、難しい問題を理解するのは、単なる知的な操作以上ももののようで、腑に落ちると言う言葉があるように、理解は決して知的な操作だけでなく、身体的、生育史的なものも含むのだろう。

 もちろん大人になってからも、「私を理解して欲しい!」という状況も結構ある。そのとき、単純に知的操作で理解するだけだと実生活では問題を起こしがちだ。理解の身体的・生育史的側面を見落としてしまうと、不毛の議論(お互いの理想と現実の把握のしかたの衝突)になり、泥試合になったり、ひどいときは骨肉の争いになったりする。理解をするとき、相手の感情も重視しなければならないのは、カウンセラーや心理療法家だけではないのだと思う。

 さて、旅は、旅は道連れという言葉があるように、普段の対立しやすい人間関係ではなく、旅の中で運命共同体として同じ方向を向き感情を共有しやすくなる。そして、昨日の話ではないが、神社仏閣・教会・遺跡に行ったりすると、今度は様々な理解が飛び交うことになる。

 最近の例ではあるが、宮島の巨石や遠野の続石に触れたりするとき、全身で太古を理解しようとするものだ。巨石は「私を理解して欲しい!」と叫んでいるようにも感じたりする。

 

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