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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

「私は私」がはっきりしない社会!(時の旅① 8/10)

2013-10-07 | 第七章「光と復活体」

 写真は多摩センターの近くなのであるが、昨日は夕方、多摩センターで時間を過ごし、そして夜は映画を見てしまった。「エリジウム」である。2154年のロスアンジェルスを舞台にした(それと宇宙も)映画であるが、今の日本を考える上でもなかなか勉強になった。富裕層が天国のような生活(外観上であるが)をし、貧困層が荒廃した地球で生活をする。そんな設定であるが、やはり欧米の映画。日本の映画と違い、カラッとしている。敵味方もはっきりしているが、登場人物すべてが、「私は私」。へんな自他混同もなく(もちろん母親の子供への盲目的な愛はあってもだ)。理想と現実の混合もなく、等身大でそれゆえ、とても迫力がある。

 日本人の社会は、かつて土居健郎氏が「甘えの構造」で指摘されたが、甘えが何かベースといって良いほどの社会ではないかと思う。学校教育も相対評価の偏差値を異常なほど活用?しているし、何か皆で渡れば怖くない・・・といった雰囲気が多いのだ。この私も甘えの構造が多分沢山あるのだろうが、外国の文化に触れると、その異常さに気づくことが多い。

 理論的にいうと、防衛機制としての「同一化」が、良く顔を出す社会なのだろう。その延長として「もののあはれ」などの特徴もでてきて、私は日本人に生まれてよかったと思うことが多いが、いざ、乱世となり災害があり・・・といった状態になると、かなり問題を起こす。防衛機制はすべて、自分のこころの安定をよくする仕組みだが、それゆえ厳しい現実を見にくくする傾向があるのだ。

 関東大震災のときも災害を大きくしたのは、火災に反応する集団的な、甘えの構造があったように思うし、日本の原子力発電所の安全神話やマスコミの挙動も、同じようなところがあるのではと時々思ったりする。・・エリジウムの日本版があったら、どんなストーリになるのだろうか。そんなことも思ってしまう。ハッピーエンドになるようなストーリーは意外に真実実がないように思えてしまう。

 災害や危機、激烈な競争のような環境では、自分の感情・思考を頼りに迅速に行動することが求められる。リーダーシップも同じである。私という生命体が、自分自身で感じる五感・体感とそれに基づく思考・行動が大切なのだ。つまり私は私のスタンスだ。

 この当たり前のことを、意識されにくくしている心の文化が日本にはある。そんなことを、ちょっと知っているだけで、随分違うと思う。

時の旅① 8/10

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