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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

『汚れ』からの脱出は可能!(心の健康度 ③ 5/10)

2014-05-07 | 第四章「愛とゆるし」

 春は「ケガレ」と「ミソギ」の季節なのだろう。仏教の花祭り、キリスト教の復活祭、そして先日の大国魂神社のくらやみ祭り・・・生きる中でケガレてきた何かをキヨメる。春は、そういう季節なのだ。

 さて、先日facebookで知ったのだが、多額の製作費をつぎ込んで作ったコマーシャルが、不快感を与えるという理由でテレビコマーシャルから撤収されるということだ。実際に拝見したが、私には特に不快感は起こらなかった。しかし、人それぞれ、生育史が違うのだから、そういうことはあると思うが、それが社会的な問題なので熟考してみた。

 結論は、日本の脈々とつづく「汚れと禊」の文化なのだろう。ただ、性の文化は例えば古代や平安時代と江戸時代、あるいは現代と随分異なる。同じ日本人かと思うところも。それでも脈々と「汚れと禊」の文化は深く息づいているのだろう。

 教科書にも載っていたが、中原中也の「汚れちまった悲しみに」という詩を、高校生のころ愛唱していた。当時の社会混乱の世相などを考えると、何となく切なくなる。当時、自死を選んだ人のことを思い出す。彼らの心のどこかには「汚れちまった悲しみに」があったかもしれない。

 しかし、生き甲斐の心理学を学んでいる現在、この『汚れ』の印象は随分変わった。世の中には、感覚的に汚れることは沢山ある。しかし、何が汚れたというのだろうか。身体、心・・・。ここではU先生ではないが「思考」が極めて重要だ。「汚れた思考」はあると思う。人を騙したり、自分を貶める思考は確実にある。しかし、その思考は、反省し改めることは可能だ。

 身体や心(生育史)は、汚れるものなのだろうか?一度汚れたらもとに戻らないものだろうか。様々な解釈があるだろうが、クリスチャンである私はそうでないと考える。多くの伝統的宗教や哲学も、汚れは除去可能だとしているのでは。因みに先の中原中也はカトリックにかなり接近したらしく、最近詩を読んで高校生のころの印象とずいぶん違っていることに驚いた。

 しかし、それでも汚れるものがあると主張する人も多いと思う。感情の世界である。Aさんが嫌いになる。思考が変わっても(例えばゆるそうと考えても)、感情はなかなか修復しない(感情はゆるせない)。感情は意識の世界と無意識の世界を反映しているので、意識された思考ほど簡単ではないことも判る。

 ただ、私も、極めてまれかもしれないが、嫌いな人が、ある瞬間嫌いでなくなるという現象を経験した。難しい感情の世界ですら浄化は原理的に可能かなとも思える。覆水盆に返ることもあるのだ。

 さらに、何かを信じることで、随分変わってくるようにも思う。人の仏性を信じたり、「人の身体は神の神殿」を信じたり・・・「汚れからの脱失」は可能だ。

心の健康度 ③ 5/10

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