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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

自信をもつことを大木を観つつ思索する!(心の健康度 ④ 7/10)

2014-05-19 | 第四章「愛とゆるし」

 雑草のように・・・と昨日は美しい雑草についてブログに書いたが、正直何か落ち着かないところがあった。雑草の逞しさや美しさは判るが、心のどこかにネガティブな感情(劣等感、罪悪感、疑惑・・・)が湧き起こるのだ。

 ふと、U先生から教えていただいた、自分のイメージをふくらますときに、「草原の草をイメージしてはダメで、草原の大木をイメージした方が良い」ということを思い出した。兎角、人は自分のイメージを草に投影しがちだが、それはあまり良くないとのこと。

 そして、家の近くの銀杏の大木を観に行った。いつの間にか青々と葉が生い茂って、実に力ずよくネガティブな気分がふっとんだ。この神木、樹齢五百年以上の神木といわれ、室町時代の記録にもあるそうだ。

 銀杏は、高校生の時に校舎にあった大銀杏を長い時間をかけて写生したことで、何となく好きになった。今頃の若葉も素晴らしいが、秋の美しい黄葉や刺激的な銀杏の実の臭い、そして冬の葉を落としつくしても立ち尽くす存在感。自分がどんな大木かをイメージするのは心の健康にもよいようだが。今日の私は銀杏の大木がピントくるようだ。

 さて、今日は、この大木のイメージと同時に、「自信をもつこと」について思索をしている。辛いとき、何かネガティブな感情で押しつぶされそうなとき、よく周りから「自信を持ちなさい」と励まされた経験は誰にでもあるようだ。

 しかし、世の中、厳しいもので、この「自信を持ちなさい」という言葉が、何かピントこないことも自分の拙い経験からしても多い。自信をもつといっても、自分の身体、自分の経験、自分の能力にホントに信じることはできないことも多いのだ。

 そして、考えると「この世的な自分」は、すべて滅びたりする限界が明確なものばかりだ。その中で、なお自信をもつということは、この世的なものを信じるのではなく、あきらかに「あの世的な自分」を信じるということではなかろうか。絶対的なピンチの時に、自分を信じるというのは、・・・自分の魂や霊魂を信じることでもあると思う。人にそなわるという仏性とか、「人の身体は神の神殿」といわれるような何かを信じることなのだろう。

 以前、WHOで健康の定義に関して大議論があったということを聴いた。これはスピリチュアル的なものを健康の定義の中に含めようという議論であったが、今のところ残念ながら世界的な合意形成にはいたらなかったようだ。しかし、周りを見渡しても、人権の考え方の基本には、このあの世的な何かを想定しているとしか思えないロジックが働いているのは忘れてはならない。

 自分を信じ(愛するという言葉に置き換えてもいいが)ることができれば、その延長として他者を信じることもできるのだと思う。

 自分を明日にも引っこ抜かれるヒメジョオンとイメージするのではなく、大銀杏とイメージしようではないか。

心の健康度 ④ 7/10

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