還暦も過ぎると、あの世がだんだん身近に感じられるようになる。大切な方が亡くなったりしたとき、あの世はどうなんだろうと確かに考えたことはあるが、この年になると日常の中でもっと真面目に考えるようになる。
時々親しい人から、あの世はあるのだろうか?などと訊かれることも多くなる。
そんなことで、この数年ダンテの神曲に興味をもったり、渡辺昇一さんの「人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するか?」などを熟読したりした。好きな寺社仏閣・教会訪問でも、地獄の閻魔様や三途の川で衣服を剥ぎ取る、奪衣婆像に釘付けになったり。ヨーロッパの大聖堂にある謎の彫刻(たぶんキリスト教の古層の宗教か?)にぞくっとしたりも。
しかし、スマホが跋扈する21世紀にはピンとこないことがあり、どうしたものかと思っていたが、最近読んだ、米国で著名な精神科医M.スコット・ペック(1936-2005)の「死後の世界へ」(集英社)は衝撃的であった。今のところ一番、私のあの世像に近い感じだ(スコット・ペックはキリスト教徒であることもある)。
亡くなると身体は亡くなるのだが、基本的に自由の原則があり、思考・感情・行動が存在する。そして、天国、煉獄、地獄があるのだが、それは何か仕切りがあって分れているというより、混在しているようなイメージ。面白かったのは、天国でも仕事があり、例えば社会貢献?をする委員会で人の世話をしたりする。そして、天国の住人でも睡眠をとるのだ。きっとストレスから回復するためなのだろう。
これは、なかなか深い考えからきていると思う。U先生の「生き甲斐の心理学」でも、ストレス曲線(暗い感情)は、極めて大切にされている。
通常、日常の中で誰もが問題を抱えていて、ストレス曲線を抱くものである。しかし、時にその感情を防衛機制のためにうまくキャッチできなかったりで、問題を放置することがある。10年一日のとおり、同じような問題の重力に捉えられ、同じような防衛機制を繰り返し、問題の周りを回っているかのようだ。
私も、同じような状況に陥ったことがある。今でも、そのような問題がどこかに残っているかもしれない。
それは、兎に角、問題解決は問題をしっかり把握するところから始まるのは、心の問題だけでなく共通のようだ。品質管理でも現状の把握はポイントだし、ケプナートリゴー社の有名な手法も同じだ。そして、問題を吟味して、解釈を変えたりすることで問題が解決すると幸せ感が生じる。それが何とも素晴らしい実感を伴う。ディズニーランドのような疑似的幸せ感(これもたまには良いかもしれないが)が天国ではなく、問題を解決し真の幸せ感を感じるのが天国なのだろう。
さて、心の問題では感情(ストレス曲線)をつかむところが大切だ。次の写真は先日、都会のふるさとを散策したときの写真の一枚である。
都会でも一歩入り込めばありそうな風景。通常、この風景に引っかかり深くストレス曲線を抱く人は少ないだろう。車だったら「通りにくいなぁ」と一言軽口をたたき通り過ぎる人がいるくらいだ。
しかし、この道にも歴史がある。ここは坂町というところで、江戸時代から町名変更の荒波にも耐えて町名をのこしてきたところだ。江戸時代には幕府の御手先組の長屋が付近にあり、ちょっとした屋敷があったため、道が鋭角に曲がったのだった。鋭角に道を曲げたのは、何か防衛的な意味もあったのだろうか?
東京大空襲では、このあたりは焼け野原になったが、また復興して道は残る。そして、私が生まれ、このあたりで幼馴染からもらったべっこ飴を食べようとして祖母からきつく叱られたことがある。当時は疫痢が流行っていたからだ。しかし、祖母の生育史や考えを理解できない私にとっては、単なる偏屈な祖母であり、心のどこかで傷ついたのだろう。
この一枚の写真を撮るとき、何らかのストレス曲線が蠢き(無意識からの感情も含め)、写真を撮った。その感情をきっかけに、何らかの課題を抽出してみる。そんなことが心の問題を扱う時も大事なようだ。
ストレス曲線をバネに① 1/10