自分探しという言葉があるが、私も学生時代に旅に出たりした(多くは瀬戸内海方面だった)。その中で印象的なのは、ひとり旅ではなく文章を書いた経験だった。当時は、理工系の学生で数学や数理統計学などを勉強をしていたが、文学にも興味があり、あれこれ考え下手な文章をしたためた。まあ、内面的な旅だった。
ただ、文章化することは、不思議なもので、見えないものに形が与えられ今まで見えなかったものが見えてくるのだ。
その内面の旅では、何か受け入れがたい自分というものが明確化され、ちょっと自分自身で茫然とした。しかし、青年の軽薄さもあり、簡単に解ける問題ではないと思い、深追いはせず難問を神棚に置いて、気楽に就職して社会人になった。それは、それで大きな糧を得て自分としてはとてもよかった。しかし、中年になると、未解決な問題が不思議に問題となってくる。私の場合は父の死がきっかけだったようだ。
さて、臨床心理学には受容という言葉があり、傾聴や心理療法などで大切にされている。一見、受容は技術のように思えるのだが、やはり長年時間をかけて会得する生涯追及するもののようだ。人それぞれ、生育史の中で苦労しながら何かコアになるものをベースに結晶化させていく。
受容だけでないが、自己との対話がうまくなっていくと、今まで見えなかった自分が見えてくる。つまり、自分に対する解釈の幅がひろがり、変に自虐的になったり、変な逃げをうったりしなくなれる。そして、だんだん見通しがよくなってくる。
私の場合、受容のコアは偶然に会得した実感だった。それは、先の学生時代に私が神棚においたものと全く正反対のようなものだった。自分探しというより、自分探され・・・みたいな。
人生においてたいせつなことの一つは、何か目標・理想をたてて、それを実現していくことだと思う。しかし、目標とか理想は怖いもので、そこに到達するまでは、自己評価が低くなる。時には奴隷状態に。そして、そういう習性が過度になっていくと、大事な目標や理想が自分が本心で考えたものではなく、他者から与えられたニンジンであっても気付かなくなってしまう。
最近読んだ、心理学者のスコット・ペックの「死後の世界へ」という不思議な小説にでてくる地獄の住人のようだ。窯にゆでられたり、針山の地獄ではなく、現代でもおなじみの風景のような地獄だ。地獄は、意外に自分自身でも作れるものかもしれない。
今の私の受容のコアは、もう何か分からなくなって理想に向かいつつ、当然自己評価が最悪の自分が、サムシング・グレイトから、突然無条件に受け入れられるという実感だ。
受容されるということの体感は、結晶の核となり、自分だけでなく他者を受容するための大切なコアになったように思う。
私の場合は、カトリックの信仰がその核だと思うが、もちろん、人それぞれ受容の核をお持ちだと思う。そして、それは現代だけでなく、縄文時代の祖先にもつながることだと思う。
つながること 3/10