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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

愛の痛み!(愛の問題 7/10)

2016-03-09 | 第四章「愛とゆるし」

 この数年百人一首にこっているが、その一番目の歌は・・・「秋の田のかりほの庵の苫(とま)をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)である。因みに二番目は持統天皇の歌なのであるが、持統天皇は天智天皇の子供である。

 この歌は、天智天皇の歌かどうかは定かでないものの、藤原定家の13世紀の時代からみての理想の天皇というイメージが伝わってくる。日本書紀を読んだり、通説の天智天皇像を振り返ると、冷酷な政治家という感じがするのだが、歴史を勉強していくと天智天皇は愛情深い一面ももっていたことを認識してくる。

 さて、この歌を今妄想しているが、露に濡れつつという袖は、誰かへの天智天皇の涙も交じっているように感じてしまう。それは誰か?額田王、間人皇女、倭姫王、遠智媛、・・・いろいろ考えてしまうが、私は遠智媛を上げたい。日本書紀によると、大化改新で孝徳天皇や中大兄、藤原鎌足側についた石川麻呂が、後日、孝徳天皇、中大兄?の謀略によって殺害されてしまう。遠智媛は中大兄(天智天皇)の妻であるが、石川麻呂の娘でもあり、父が無残に殺害されたショックでしばらくして亡くなる。その時の気持ちを日本書紀は次の悲しい歌で表現している。

 山川に 鴛鴦(おし)二つ居て たぐひよく たぐへる妹を 誰か率にけむ (山川にオシドリが二羽ならんでいるように仲よくならんでいる媛を、だれがつれていってしまったのでしょう) (日本書紀Ⅲ 中公クラシックス 131)

 石川麻呂が亡くなったのは、649年であり、このとき遠智媛の次女であった持統天皇は数えで5歳であった。この悲劇の中で持統天皇は育っていくが、どのように父・天智天皇を観ていたのだろうか?その後の人生の軌跡を熟慮すると、天智天皇を否定的に見るのではなく、ひょっとしたら夫であった天武天皇より肯定的にとらえているようだ。少なくとも天智天皇を完全に受容していたようだ。

 自分の血をのろい自虐的になるわけでもなく、時に天智天皇のライバルであった天武天皇側に壬申の乱ではつくが、最終的に政権の長となり政治的手腕を発揮する。写真の天智天皇の陵は、持統天皇が斉明天皇の陵と共に造営し、持統天皇陵の極北(東経135度48分)に位置する。人は自己実現の道をまっしぐらに進むとき、罪悪感でくよくよしないようだ。

愛の問題 7/10

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