イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

人は見かけによらぬもの・・・ (月を解釈する 3/10)

2016-07-15 | 旅・雑記帳

 縄文時代に興味をもってくると、縄文の人々が見た月とか太陽、あるいは動物や植物を意識するようになってくる。それも、五感・体感を重視する中でだ。タヌキを食べるとどんな味か・・・などと最近妄想するとなるとかなり危ないが(私も最近・・・)。さらに、身近な道具や器具をはじめ森羅万象(先日は選挙だったが)に不思議な興味も。

 月については、この数年興味を持続している。そして、いろいろなことを発見する。恥ずかしながら、20年前のサラリーマン生活では、世間並みに満月などは意識したことがあるが、上弦の月とは何か、真冬の満月は真上近くに見えることがあるが何故か、月の形や出る時間のあらましなどは、はっきり知らず、また知ろうともしなかった。

 縄文時代のレベルとしてはかなり危ない。ポンと縄文時代にタイムスリップしたら知識面で生き抜けるだろうか。生活に必要な栗や雑穀、漆などの栽培の時期などを簡単に間違えてしまったり、丸木舟の航行も危険だったかもしれない。

 メソポタミアでは今から7000年~6000年前には太陽が一年に動く角度が1度であることを知っていたという。そしてエジプトでは6000年前には365日の太陽暦を使っていたという。日本の縄文時代は文字文化がなかったので不明であるが、縄文土器などの図像を解析すると太陰暦の知識は充分あったようだ(縄文中期には少なくとも)。明け方と夕暮れ時の月の形と位置。一日50分ずつずれていくので、それを軌跡で捉えると、左巻きの蕨手状になったり、右巻きの蕨手状になったりするが、それが土器に見事に描かれている(中部の縄文中期など)。

 さて、月の見かけについて知っていたとしても、その背景の原理的な面は、もっと意識しないとできないだろう。地球の自転が一日360度であるということは何となく誰でも想像するが、実際は地球も太陽の周りをまわっているため、一日の中心を昼の正午とすれば、それに合わせるためには自転を一日約361度にしなくてはならない。見かけと背後の真実。このあたりの微妙な差は重要だと思う。

 自分とは何か?生き甲斐の心理学では、こころの健康に大事な3つの問いかけの一つとして大事にしているが、自分という身近な存在ですら何か361度の世界のようだと思う。さらに他者となれば、生き甲斐の心理学を学んでわかることだが生育史の違う他者は実に分らない。適当な言葉で恐縮だが、1度の差というより数百度も違い900度くらい??の世界のようだ。しかし、自戒を込めて思うが、世の中では360度の世界のようにまことしやかに言う人も多い。それも分らないことではないが。

 ただ、900度とかの世界であっても、なにかが伝わるということがあるようだ。月を見て、単なる石の塊だと思う人もいるが、生命体をどこかに感じて美しいと思ったりする人もいる。人でも同じであり、感情では避けたいところを、理性面で愛で乗り越えようとする人もいる。このあたりは一つの信じて観える世界であり、生きる上で大事にしたほうが良いように私は思う。

月を解釈する 3/10

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