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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

女帝を生む時代を飛鳥の南端で考える・・・(新春の旅 3)

2017-03-07 | 旅・雑記帳

 若いころ何回か飛鳥を訪れたが、お決まりのコースで猿石や亀石などを見て、日本にこのような文化があったことに驚嘆した。それから何十年かして飛鳥を何回も訪れるようになったが、不思議なほど猿石などの現物を見に行くことはなかった。

 しかし、この半年、比較宗教学や比較文化を熟慮しつつ臨床心理学を学ぶ「生き甲斐の心理学」のU先生の関心は、女帝の時代の東アジアの状況に及ぶようになり、私も持統天皇と同時代の唐の則天武后や新羅の善徳女王に関心をもつようになった。

 さらに、最近の古代の考古学者の関心が日本だけでなく東アジア等世界に及んでいる状況も、業界の方からお聴きし、拍車がかかったようだ。私も縄文小説を書いて、縄文時代でも同時代の世界の影響を強く考えざるを得なかったこともある。

 さて、3月1日の活動を振り返ってみたい。この日は、図らずも女帝を妄想する日になった。草壁皇子の墓の次に訪れたのは、壺阪寺であった。

   

   

 

 入り口の近くの講堂に足を踏み入れて驚いた、そこには約500体のお雛様と平安時代の古い仏像が織りなす曼荼羅の世界があった。壷阪寺の創建は持統天皇の亡くなった翌年と言われている。日本で初めて火葬されたという持統天皇は、私は仏教を大切に考えていたと思う。それゆえに壺阪寺と持統天皇は何か関係があると私は思っている。

 壺阪ではは創建後飛鳥の南端といったらよい、この地で栄えるのだが明治の廃仏毀釈のときに廃寺になったそうだ。そして、天智天皇の御陵を北限に、平城京、藤原京、天武天皇・持統天皇の御陵、文武天皇御陵や今話題のキトラ古墳、そして壺阪寺と聖なる南北のラインに乗っている。

 聖なるラインとは北極星を意識した南北のラインである。天皇という言葉と関係が深いかもしれない。この発想は一説によると則天武后が考えたとも言われ、日本でも天武・持統天皇の時から使われ始める。もちろん原型は新石器時代にあると思われるが・・・

 壺阪寺まで来たので、車ですぐの高取城も寄ってみた。高取城は植村氏とも関係が深く、城壁に古墳の石が使われたり、猿石のような石も飛鳥からもってきて魔除けに使われたとも言われていて興味深かい。しかし、城址の近くは人通りも無く、次の看板には驚いて逃げたくなった(笑)。殆ど通行禁止と言っているようだ。

  今は冬なので、勇気を出して行ってみた。

    

山科の北限の天智天皇陵はこのところ何回か訪れアースフィーリングを楽しんだが、この高取町の南限の地も感じるところが大きかった。

次に、飛鳥駅の近くの欽明天皇陵と吉備姫王(吉備内親王ではなく、女帝の皇極天皇の母と言われる)の陵に行き、猿石と再会した。

   

 心理学の世界では、アニマとアニムスといった概念が登場する。興味深い概念であるが、この7世紀の東アジア。不思議なことに女帝、それも最強とも言ってよい女帝が東アジアにつぎつぎと登場する。隋を破った唐の太宗は貞観の治で有名だが、その後を受けて女帝の則天武后が実権を握る。日本でも持統天皇は余り目立たないようであるが、壬申の乱で勝利した天武天皇の後、南海地震などで大変な時期を持統天皇が実権を握り治める。それはほぼ則天武后の時代だ。それにより日本でも唐と同じような律令制が完成する。また半島でも三国を善徳女王を輩出した新羅が統一し、唐との戦いで勝つ。これにより、日本も唐に白村江で敗戦したにも関わらず、唐の支配から独立していくことができたようだ。ちなみに藤原京は新羅の当時の首都・慶州に似ているとも言われている。

 この時代には、百済と高句麗が東アジアで消えていく。どちらも女帝を輩出しなかった国である。男性と女性の本質は・・・生き残るための叡智と関係が深いかもしれない。それは何なのだろう。

新春の旅 3

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