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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

この土偶はお好き? 「好き」を考える (リモート時代と縄文と私 8/10)

2020-07-24 | 第二章「五感と体感」

 好きか嫌いかという感情は原初感情と言われている。因みに身近なものを見て、「好きか嫌いか」と自問自答してみると「好き」か「嫌い」かがはっきりわかることに驚いたりする。初対面のお相手に「どういう感情が湧きましたか?」と問われたりしたら戸惑うが、「好きか嫌いか」と訊かれれば答えることができる。

 では「好き」「嫌い」の感情とは何か?と考えた方はいらっしゃるだろうか?「生き甲斐の心理学」をU先生から学ぶ前は、正直考えたことはなかった。「好き」「嫌い」の感情はなぜ起こるのか?「好き」「嫌い」の感情は変化することがあるか?嫌いな相手を「好き」になることはあるか?「好き」「嫌い」の感情はどこから来るのか?

 今日はこのあたりを考えながら自分の中にある土偶への愛着を考えていきたい。

 さて、今年の梅雨も何となく明けていく雰囲気になってきたようだ。そんな中、今週も近くの国立市の緑川東遺跡の周辺を散策した。最近4回訪れたが、今回はもう夏の気配が漂っていた。草の匂いが・・

 二十四節季では今はもう大暑。ふつうなら梅雨は明けているはずである。当たり前になりつつある異常気象。二十四節季を意識したのはU先生に「心の健康に二十四節季を意識することは大切」と言われたからだ。先日も知人と話したがかつては正月やお盆、お彼岸は皆意識して心待ちにしたりしていたが、最近は正月さえ日常の中に埋もれ季節感もなくなってきたとのご意見だった。

 逆に言えば二十四節季を意識しなくても現代人の生活は滞りなく送られるようになったのかもしれない。私が幼かったころは電気冷蔵庫は家庭には普通にはなかった。季節の物を買って食べるのが当たり前だった。私が好きな縄文時代の人々も、当然ながら季節を強く意識して生きていたと思う。その証拠に、カレンダーを連想するような文様がついた土器があったり、二至二分を意識しているストーンサークルがあったりする。祖先は今より桁外れに様々な動物や植物を食べていたとも言われているので、季節への意識も桁外れだったかもしれない。

 季節は川のように流れていく。そして循環する。私たちの感情もロジャースの理論では川のように流れていくのが健康だとされている。先の「好き」「嫌い」も、例えば私の妻への湧き上がる感情も「好き」もあれば「嫌い」もあるが、川のようにさらさらと流れていくのが健康のようである。感情というのはなぜ生じるかというと理想と現実のギャップと考えるのが分かりやすい。普段は理想も現実も意識しないが、「好き嫌い」を意識すると背後にある自分の理想と現実の有りようも意識するようになる。自分の理想や現実を点検すると、感情も変わってくることを知ったのはいつだっただろうか。心の川がよどみ2日も気になることに苛まれているなと気がついて点検したら、瞬時に消えることもある。

 いろいろな事情で嫌いな相手と付き合わなければならないときがある。こうしたときの解決策は、嫌っている自分を意識化するのが第一段階。次に理想と現実のギャップを考えることも大事かもしれないが、憎しみ(友好的感情の反対)が強いともう駄目だ。そういった場合は、「嫌い」な相手の中に自分とつながる何か、受け入れやすいところに思いをはせるのが良いようだ。相手の良いところをのんびり考える。そんなことをしているうちに、鏡ではないが相手の態度の変わってきたり。そして、時間が経ち恩寵のように相手を受け入れる時が来る。それから、こうした一連の流れを支える重要なことがあるが、それは後半の土偶の話の中で。

 話が随分それてしまった。緑川東遺跡周辺を散策した話に戻ろう。この遺跡では縄文中期末の敷石住居跡と4本の立派な石棒が見つかった。写真は一年半前にくにたち郷土文化館で撮った石棒のレブリカの重さを感じている私だ。このような大きな石棒が4本、敷石住居跡から見つかった。これらは祭儀で使用されず、何らかの原因で未使用なまま埋められたようだ。昨年東博の「出雲と大和」展で見た、銅鐸が大量に埋められていた遺跡を思い出した。ある時代が終わるときに目にする光景かもしれない。

 

 石棒は縄文時代での大切な信仰の対象であったように私は思うが、はじめの写真(東京都田町の伊皿子貝塚)のような土偶は縄文時代の信仰の対象として注目を集め、最近は若い人をはじめ愛されているようだ。

 私も何年か前に尖石の縄文のビーナスと仮面のビーナスを観て虜になってしまった。以前東博で確か「祈り」がテーマで仏像と一緒に国宝の土偶が展示されていて拝見したときだったかもしれない。私はクリスチャンであるが、仏像や土偶が好きである。この「好き」というのは理想と現実のギャップだけでは説明がつかない。比較宗教学や比較文化論の影響を受けたU先生の「生き甲斐の心理学」での重要な人間観は、人は身体(医学の対象)と心(生育史を中心にした臨床心理学の対象)と魂(宗教、哲学の対象)からなるとしている。この考えからすると、土偶を観て好きと感じるのは身体からか、心からか、魂からか。欧米風に分けて考えると見えてくることがある。

 写真のマスコット的な大きな土偶は生育史からくる好きを意識して制作されたのかもしれない。東博の「祈り」の企画展は魂を意識していたかもしれない。そして、縄文時代の人々は身体も、生育史も魂もすべて意識してたのでは。

 それから魂をどのように考えるかについて少し述べてみたい。オカルト的に考える人、怨霊のような魂、いろいろあると思うが、欧米の伝統的解釈はキリスト教の影響が強い。U先生は「魂は愛そのものであり、人が死ぬと身体から離れる生命体としている」。実際に死んでみないとわからないことだが、「魂は愛」と考えると世界が少し違って見えてくる。マザーテレサが何故異教徒が多いインドで死者の家の運動をしたのかもはっきりわかる。それから、少し戻るが「嫌いな人を好きになる」プロセスの表面にはでてこないかもしれないが、愛そのものの魂を信じることで流れがぶれないように思う。

 さて、縄文時代には戦争がなかったようであり、人を殺すことを目的とした武器がなかったことで有名である。私は縄文時代の宗教の中に、特に魂の考え方に「人の魂は愛そのもの」という思想(あるいはそれに近いもの)があったのではないかと想像している。それから、縄文人の心情をわかりにくくするアニミズムなどの概念がよく言われるが、生き残るために木々を伐採したり二次林を作ったりしていたり自然を結構改変している事実は何なのであろうか。人と他の生命体との線引きが意識されたのはどこから来るのだろうか。

リモート時代と縄文と私 8/10 

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