イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

ほっとする人

2006-04-13 | 2006年度(1/13まで)
 人生では、孤軍奮闘することがある。精神的に追い詰められるときがある。こうしたときに「ほっとする人」はありがたい。夏目漱石の「坊ちゃん」では、最後の場面に、東京に戻るとやさしい下女のお婆さん、清さんが、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぼたぼた落とすシーンがある。本当に愛の人である。

 自分の人生を振り返ると、追い詰められたときに、「ほっとする人」に会うことはどれほどありがたかったか判る。それは、母であったり、父であったり、祖父母であったり、妻子であったり、友人・知人であったり、先輩・後輩であったりした。

 なにも言わずに、自分の存在を認めてくれる人。そして、場合によって、自分の置かれている状況を的確に確認してくれ、幸福曲線に導いてくれる人である。

 自分の置かれている状況は、精神的に追い詰められると、客観的に把握できなくなりがちになる。こうした時に、的確に風見鶏よろしく状況を教えてくれる人はありがたい。変に自分を責めたり、混乱したりすることなく、正しい方向に向かっていくポイントになる。ありがたいことである。

古今東西の名著で癒される

2006-04-09 | 2006年度(1/13まで)
 精神的に追い詰められたときを窮地というならば、ノウハウ本のようなもので、窮地を救われた経験は皆無である。また、実用書で窮地を救われた経験も皆無である。

古今東西の古典や一流の学者が書いた哲学書等がやはりなんと言っても最大の妙薬である。

 私にとって、人生最大の危機のとき、幸運なことに、集中的に古今東西の名著を読んだ。それが糧となり、突然、想像もしなかった新しい展開が訪れた。

美で癒される

2006-04-09 | 2006年度(1/13まで)
 先日、京都の東福寺を訪れた。素晴らしい庭園を見ながら、美がこれまで如何に私を癒し、窮地を救ってくれたかを考えた。窮地にいるとき、本物の美は不思議なことに、何かをつぶやき、そして深く魂に触れるようで、ふと何かを悟らせてくれる。

 高校生のころに訪れた、東京近辺の山、伊豆半島の美しい自然、大学生の時に、明け方の東の空に輝く明星を見て、こころが洗われた。卒業後、入社して関西に転勤となり、独身できままに京都や奈良を散策した。広隆寺の弥勒菩薩、興福寺の阿修羅像、浄瑠璃寺、東寺、清水寺、青連院、養源院、薬師寺、東大寺、竜安寺、飛鳥方面、法隆寺、奈良公園、正倉院・・・いろいろ訪れたが、そのうちいくつかは、確実にこころの糧となった。美術館の芸術品にも大きなめぐみを頂いた。音楽も小学校のころに父がステレオを購入し、クラシックからジャズの名曲のレコードを良く聞いた。

 停滞し、苦境に陥っているときこそ、美に触れるチャンスをもつべきだと最近つくづく思う。
 
 

本音を語ることで癒される

2006-04-08 | 2006年度(1/13まで)
 52歳で長年勤めた会社を辞めて、新しい仕事にチャレンジすることは、結構精神的にきつい。その中で、ああ、あんな失態をやらかして・・など赤面することも多いが、なんとかやってこられたのは、人に支えられたということ以外にない。そして、不思議なことに支えられる場面では、自らが恥を覚悟で本音を語っていた。

 本音を語ること。思い出せば6歳から7歳にかけてのころに原体験があるように思える。アラスカの現地の小学校に通い始めたころ、周りには日本人が一人もおらず、英語ばかりの世界であった。異文化の中に溶け込めず、一時は思い起こせば、不安神経症のような身体症状を呈してこともあった。急に心臓に痛みを感じ、父親が職場から駆けつけたこともあった。そんな中で、ある日小学校で、何も語らない私に小学校の先生が、色付のカードを見せて、「これは何色か?」と尋ねているようであった。優しい先生で、心配してくれるのがよくわかった。そして勇気を出して、「赤、紫・・・」と日本語で語った。先生は、びっくりしたようであったが、クラスの生徒に、日本語で色の名前が、「Aka, Murasaki...」というんだと喜んで話してくれた。人に本音で語り、それに応えてくれることの喜びはなんと大きいことか。そんな体験の下で、異文化の環境になじんでいったと思う。

 本音を語らず、どこかで抑圧して、こころの負担になったこともある。アラスカに行く一年前、通学途中で外堀通りで友達が飛び出し、バイクにはねられた。事故後、駆け足で小学校に行き、職員室の先生に報告したのはよいが、状況をきちっと本音で語らないために怪訝な顔をされて無視された。はねられた友達とふざけて遊んで登校していた事実、はねられてピクリともせず倒れた状況などを語れなかった。会った先生が、よく知っている先生であればよかったが、殆ど面識のない先生であったこともあり、仕方が無かったかもしれない。

 その後両親や、亡くなった友達のお母様とお話したが、本音の部分を正直に言い出せず、その後の人生の中で禍根を残した。この問題を意識して思い出し、亡くなった友達に、こころから謝ったのは50歳を過ぎてからであった。