イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

役割と愛!

2007-10-26 | 第九章「愛」

 マルチーズの子供コナツを引き取ってから3ヶ月。コナツも驚異的な成長を遂げ、今では親のノコ(6歳オス)と同じ大きさになってしまった。

 マルチーズの親子を観察していると、父親のノコの不思議な行動に気付く。例えば、水や餌は親犬ノコは、子供のコナツに譲る。まず子供に飲ませたり、食べさせたりするのだ。

 見ていると、眠る場所も譲るようである。子供を大切にするのは、人間でも動物でもあたりまえなのである。

 最近は、元気の良い子供(コナツ)は、よく父親に前足などでチョッカイをいれる。遊んで欲しいようである。ただ、父親ノコにとっては、背中に引っかき傷やらで、結構大変である。そのため、父親ノコは子供を威嚇するが、コナツは巧妙に逃げてしまう。

 親、子、誰も教えてはいないが、マルチーズは親と子のそれぞれの役割を果たしているのだ。生命が誕生して40億年以上たつが、既にDNAには、このような親、子の役割が記憶されているのであろうか?

 私は、50数年生きてきたが、いろいろな役割を生きてきた。長男として、兄として、幼稚園児として、小学生として、日本人として、学生として、企業人として、組合執行委員として、友人として、先輩として、後輩として、同志として、ドライバーとして、介護人として、職員として、父として、夫として・・・・

 いろいろな役割を生きてきたが、やはり役割を生きることも、40億年の長い生命の歴史があると思うと、とても不思議な気持ちになる。

 学生のころは、行動科学を勉強したりしたが、役割といえば、機能的なことに想いが集中し、40億年の歴史などは考えてもみなかった。40億年の生命の歴史。そして雌雄といった、役割の発生。

 それは愛の本質のひとつではないのだろうか。お互いを成長させあう何かかもしれない。

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神も仏もあるものか?

2007-10-25 | 第九章「愛」

 読書の秋!最近は8世紀9世紀ごろの日本の歴史、特に宗教とか怨霊といった分野の歴史を読んでいる。

 その中で、つくづく思うのは、当時の政権中枢の人々の大変さである。「神も仏もあるものか!」というような悲惨な死に方をされた方々の無念さを想う。怨霊が怖れられ、祈祷が大事にされ、空海や最澄が現れた時代背景をしみじみ思う。

 こうした歴史は昔の話であるが、現実の世界も、昔と同じように「神も仏もあるものか」と叫びたくなるような体験をされた方がいらっしゃる。そして毎日のように、悲惨な事件が報道される。だんだん、自分の中に信じる力は本当にあるのだろうか?と自問自答してしまうようになる。

 そんな時に、日本にも来られたことのある、コルベ神父の話を思い出す。彼はアウシュビッツに送られ、強制労働に明け暮れたが、ある日妻子のある男の身代わりとなって、自らの意思で飢餓室に送り込まれる。そして他の囚人と、食べ物が永久に奪われる、飢餓室で亡くなる。ただ、その極限の状況で亡くなる前まで神父として他の囚人の世話をし、賛美歌を歌っていたことが記録されている。

 囚人の中には、飢餓室に送り込まれた絶望から、錯乱して亡くなる人もいたが、最後まで神を信じ賛美した人もいたのだ。絶望か神の賛美か、外部の状況は同じでもこころの状況は全く違うようだ。

 信じることとは何だろうと想う。そして、そんな信じる力はどこから生れるのかと考える。

 寒々とした風景に現れるお月様、まだ満月ではないが、豊かな神秘を語っているように思う。

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自己主張!

2007-10-24 | 第九章「愛」

 ゆがみ無く本音から、自己主張することを心がけている。ただ、自己防衛の気持ちがどこかにあったりで、なかなか難しいことも確かである。

 ゆがみ無く主張することのポイントは、主張する相手にどこか感謝の気持ちをもっていることだと思う。ただ、なかなか難しい。

 それでも、ゆがみが多少あっても、本音で自己主張することは良いと思う。

 本音で言いたいと思ってどこかで止めて、そして言う機会を逸すること。混乱して自分の本音が認識できず、後になってあの時と後悔すること。何れの場合も、自分にも回りにも、良い結果を産まない。

 生き甲斐の心理学を学び始めてから、このゆがみ無く本音から、自己主張することを心がけている。

 家族との関係など様々な人間関係も、長い眼で見れば良くなると思う。勿論、いろいろな状況があるので、状況を配慮する必要は当然ある。

 特に、混乱して自分の本音を理解していないと、事態は悪化してしまう。自分の本音をどこまで理解できるかは、生き甲斐支援のカウンセラーの大きな課題だと思う。

 切り戻しをした、るり球あざみ、秋の朝だけど、自己主張をしているようだ!

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過去に捉われること・・・

2007-10-23 | 第九章「愛」

 過去に捉われることは、つまらないことだと最近になってはっきり思う。若い頃ほど過去に捉われていたが、最近では意識して過去への捉われを無くそうと思っている。考え方次第で、大半の過去への捉われは簡単に解消する。

 簡単でない捉われは、自分の無意識の世界の中で、昔の傷をそのまま大事に保存しているかのようである。傷を大事にするというのは、どことなく変であるが、意外と大きな問題であるようだ。

 自分の生き甲斐追及の道で、無意識に傷を避ける余り、ゆがみがでてしまう。そしてある時、何を避けてきたか、はたと気がつくことがある。

 そして、はたとそうした自分に気付くのは、既にどこかで傷を克服しつつあり、大きな変化の前兆であるようにも思う。問題の一端が見え初めているのだから。ただ、いっきに克服することは無理なように思う。人間が直線的に成長するのではなく、螺旋的に少しずつ上昇するのが自然だと聴いたが、真理だと思う。

 人間にとって、過去とは何なんだろう?

 生きている限り、よりよく生きる可能性があり、その大きなヒントが過去の記憶に関係していると思う。幼虫が蝶にさなぎを通して変身するとき、素材は基本的に同じでも、幼虫は蝶に変われるのだ。 

 過去の記憶は同じでも、その解釈は意外と本人の自由であり、新しい解釈が人生の糧となる。

 こころのどこかに定着している、過去のある場面。それは、意外と、過去のある出来事を、明日のために再解釈してくれと、叫んでいるのかもしれない。

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幸福感!

2007-10-21 | 第九章「愛」

 イキイキとした幸福感を味わうことは、人生でめったにないように思う。ここに生きている幸せを、感情として味わうのだ。

 長くて辛い山登りのあとに、ようやくたどり着いた頂上での幸福感。命の危機を脱して、家族と無事を分かち合う幸福感。女性は大変な出産があるが、出産直後の幸福感もあるかもしれない。

 理想と現実のギャップが深く、地獄の底を這いずり回るような苦闘のあとに得る感情。恵みといってよいかもしれない。辛い憂鬱の後に来る幸福感は、インスタント的には得られない。

 そして、もう一度本当の幸福感を味わうために、辛いたびに出かける人は多い。

 人生そのものも、そんな旅なのかもしれない。

 死ぬ前に、自分の人生を想い、感謝の中で豊かな幸福感を味わいたいものだ!

 素晴らしい秋晴れの朝に考えた。

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