イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

主張して人は変わるか?(主張 5/10)

2011-07-26 | 第二章「五感と体感」

 主張することで他人は変わるか?

 皆さんはどう思われますか?10%くらい。30%くらい。70%くらい・・・

 私の場合は、学校を卒業して社会人となり、組織の中で働くようになると、そのパーセンテージがどんどん上がってきたように思う。組織は命令系統があり、甘えの構造の文化もある。そして、その中にいると特殊な心理になりがちになるのかもしれない。主張により他人が変えられるような想いを持ちやすくなるような。

 そんな私であったが、自分の想いをこめて必死に主張しても、他人が変わらないということを経験する。苦悩とは、そういった壁にぶつかることだと知った。そして、哲学や宗教、心理学など若いころに勉強した観点とは違って、必死に勉強したものだ。中年のある時期であった。

 自分と他人は全く違う(他人の人生を自分が生きられるわけなどない)のに、どこか自他混合していたのだと今になって思う。それが苦悩の原因なのだった。

 そんな経験や、生き甲斐の心理学の学びを通じて知った、臨床心理学の知見。それをもとに主張とは何かをあらためて考えてみよう。主張は誰に対して主張しているのだろうか。主張によって変わるのは誰なのだろうか?

 結構、深い問題である。生き甲斐の心理学では、よく回答は本人の中にあると言われる。これらの問いかけに対するヒントだと思う。

 そして、自問自答という視座ができ、自分が変わる経験を積むうちに、他人への影響力が不思議に増してくることに気づいたりする。

主張 5/10

 

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健全な主張とは何か?(主張 4/10)

2011-07-25 | 第二章「五感と体感」

 映画を最近見てなかったが、U先生やKさんに紹介された、デカプリオ主演の「シャッターアイランド」を観た。ドンデンがいしが話題になっていたが、人が身体と心(生育史)そして魂からなると考えて観ると、なかなか深いものがある。心理的な面も勉強にもなり、最近ずっと追いかけている、カールロジャースの19の命題の観点からもとても勉強になる。

 ただ、心理的な認識等の世界は、何が病理か、何が健全かという視点がないと混乱をする。冒頭のシーンではないが船酔いになってしまう。U先生より11年間「生き甲斐の心理学」を学んできたが、この病理か健全かを判断するのは、カールロジャースのプロセス・スケールが一番のようだ。

 シャッターアイランドでも、最後の場面などで医師が判断するのは、恐らくそういった理論を背景にしていると思う。

 しかし、人は先に述べたが、身体と成育史からなるこころだけでなく、魂(死んで身体から離れる生命体、愛そのものと仮定したりする)からなると考えると、人間の尊厳が見えてくる。そして、表面的には船酔い的だが、核となるものが現れてくるのだ。

 自分の主張・表現は健全なのか否か。

 昨日の清盛の日吉の神輿(強訴)の主張であるが、スカっと爽やかである。是非新・平家物語をお読みいただければと思うが、健全な主張ではないケースも、自分の成育史を考えるとある。理路からすると決しておかしくないかもしれないが、やはりおかしいというようなケースだ。現実吟味力がかけ、何か14の防衛機制もちぐはぐ。そして、アイデンティティの統合もここひとつ。

 そして、プロセス・スケールも全体的に低くなる。プロセススケールについては、このブログでも触れているが、U先生の次の記事は参考になる。

 「プロセススケールを学ぼう

 世の中、日々刻々と変わる。新平家物語だと、保元の乱など。そして、今だと大震災のようなことも。そんな時に、うろたえプロセススケールが低くなるのは当然といえば当然であるが、その中でも健全性を志向するのは大切だと思う。

主張 4/10

 

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いのちがけで健全に主張する!(主張 3/10)

2011-07-24 | 第二章「五感と体感」

 昨日は親戚の結婚式があった。その際、タクシーで赤坂見附を通ったが、赤坂見附の通りから日比谷高校が見えた。新しく立て替えた校舎がみえたが、懐かしかった。

 先日、ツイターで一年上の内田樹さんが、私と同期のFさんに40数年ぶりであったというつぶやきがあった。如蘭会館で別れて以来ということであった。当時は東大が学園紛争で入試中止になったり、多くの高校でも紛争があったりした。日比谷高校も例外ではなく、如蘭会館が真っ先に封鎖され、私の学友なども参加し、様々な主張が繰り広げられた。

 今の時代は当時と比べると全く違うが、危機感という点で似ている(危機感は意外とこころを健全にするところもある)。

 さて、他人はともかく、自分も、高校生の時は、何か自分のアイデンティティを模索していた(何のために生きるとか・・・)。しかしながら、紛争には、何かピンとこなかったし、また、受験して頑張るという意味でも、どこかピンと来ないでいた。しかし、現象の場が変わるなかで、人は反応し表現したり主張したりする。自分もそれなりに主張し反応してきた(受験し、モラトリアム的大学生となり、社会人となり・・・)。

 はなしは変わるが、最近、吉川英治の新・平家物語を少しずつ読んでいる。そして、本当にわくわくしながら読んでいるが、清盛が、強訴で日吉山王の神輿を持ち出し、比叡山から押し寄せる大勢の僧兵に、たった3人で対峙するシーンがある。そして、清盛がかっこいい口上を述べ、えいやと神輿に矢を放ちそれが命中する。そんなことをすれば、血反吐を履いて死ぬといわれていたにもかかわらずである。常識や囚われの中に生きるのは今も昔も同じだが、その中で光る行為である。

 その清盛も、あるときは、大切な約束を破ってまでも、親子の狐を憐れみ、狩りを断念する、≪ものの憐れ≫の持ち主でもある。思わず、うっとりしてしまう。

 清盛は実にアイデンティティの統合度や現実吟味力、そしてこのテーマである、健全な主張の持ち主でもある。

 私も、青年時代はとうに過ぎているが、この複雑な現象の中で、清盛とまではいかないが、身の丈にあった主張をしていきたいものだ。

主張 3/10 

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≪主張≫の原型をさぐってみる!(主張 2/10)

2011-07-23 | 第二章「五感と体感」

 先日も孫が来て、しばらく我が家に泊まり帰ったが、幼児といっても自己主張をする姿にいろいろ考えさせられた。

 まだ、言語化がうまくできないのだが、自分がしてもらったように他者に愛情を表現したり、反対に不快感を主張?するために激しく泣いたりする。

 いくら孫とはいえ、私にとっては他者であるので、さまざまな表現や主張は残念ながら推察でしか判らない。そこで、一番判りやすい、自分の主張の原型を幼児や子供のころに遡って考えてみた。何か主張することで、幸せになったり生きる上で良かった例。そんなことも。

 ロジャースのパースナリティ理論の中に命題3というものがある。

 命題3:有機体は、一つの体制化された全体(an organized whole)として、この現象の場に反応する。

 難しい表現ではあるが、生命体は現象の場で反応し、何かを主張するというふうに言い換えても良いかもしれない。

 そして、うまく主張することで、自己の本音を実現するケースもあれば、そうでないケースもあるようだ。

 私は7才のときにアラスカで暮らした経験がある。日本と違い、現地では学校や友達とは日本語が通じない。そういうハンディーの中であっても、何かを主張する必要はあった。そして、その主張(身振り手振り・・・)が受け入れられることもあった。クラスのひとりひとりが、かわりばんこに、自分の楽しい経験をスピーチしたが、私も言葉ができない中で表現したものだ。ドキドキする経験ではあったが、何かすがすがしかった。

 また、私の場合、一年くらいで日本に戻ったあとも、新たな環境になれるために結構苦労した。同じような主張をしてもアラスカで受けられ、日本では受け入れられなかったり(立たされたりも)・・・そんな文化の差も経験した。

 さて、昨日の強訴の話ではないが、主張するにも健全な主張もあるが、何かちょっと病的な主張もあるように思える。自分の場合どうだったか・・・そんなことをこれから考えてみたい。

主張 2/10

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正義を主張するとは何だろう?(主張 1/10)

2011-07-22 | 第二章「五感と体感」

 新平家物語を読み始めているが、なかなか楽しい。丁度、強訴の話が出てくるところを読んでいる。

 延暦寺に何年か前に訪れ、いろいろお世話になったり、横川まで足を伸ばして楽しんだが、その延暦寺が当時は、清盛をターゲットにするなど強訴をしていたというお話を読みながら、考えさせられた。

 神輿を担ぎ正義を主張する。何千という人たちが京で、強訴をする風景。また、それに対し強訴を受ける人たちの不安感。

 さすがに、900年以上が経った今は強訴など、昔のことである。延暦寺を訪れても、そんなことがあったとは想像できない。美しい自然に囲まれた神聖な祈りの場所そのものだ。

 しかし、正義を主張することは昔も今も変わらないようだ。理不尽ともいえるような主張も、この10年を考えても多くなることはあっても、減ることはないようだ。

 日本の猫の眼のような政権交代、政治の不安定さも、こうした強訴体質が日本人の中にあるためだろうか?ただ、日本にも自浄作用があり、長い年月の中で強訴は消えてゆく。今は例えばマスコミが似ているかもしれないが、毎年購読者を確実に落としながら、その影響力を失っている現実もある。

 絶対正義を人間が主張することは、どこか虚しい。

 主張により、自分も他者も幸せになっていく。そんな主張が増えないだろうかと思う。

 逆に、主張することで、自分が不幸せになったり、他者が不幸せになったり、時には皆不幸せになったりする。

 相手への感謝の気持ち、そんな気持ちがどこかにあれば、事態は好転するように最近思う。

 主張 1/10

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