イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

ポスト宗教時代を考える!(忠誠心 7/10)

2011-10-26 | 第五章「和解と平和」

 昨日の朝、テレビを見ていたら、瀬戸内寂聴さんの青空説法の場面が放映されていた。津波で家を失い、肉親を失った方々が来場されていた。その悲痛な悲しみを寂聴さんは丁寧にお聴きし、お話を進めていらっしゃった。話題が死の不条理の問題となり、そして極楽の話題に移る。

 極楽の話をし始めると、来場者の顔がぱっと明るく輝いた。それは、全員といってよかった。

 私事で恐縮であるが、私も40才のときに父を亡くした。葬式の時、父は浄土真宗であったが、導師のお坊さんが、悲観にくれている家族に「お父様は阿弥陀浄土に生まれ変われた。ご安心なさい。」と言われた。その言葉を聴いた時の驚きを思い出した。

 私は、その後不思議な縁というか摂理というか、40才後半で四谷のイグナチオ教会で祈っていたときに、ストンとありのままの自分を受け入れる不思議な体験をした。そして、カトリックの信仰を深めたが、そもそもの、きっかけは父の葬儀の導師の話である。

 信仰の問題は見方を変えると、青春時代に解決できなかった忠誠心の宿題であるが、自分で解決するのではなく、恩寵によって自然に解かれたようだ。

 神仏は科学の世界では説明がつかない、神仏の存在は証明できないし(高校の時にデカルトの神の存在証明を発表授業でとりあげたが・・・)、反対に否定も証明できない。そして、人類は太古から宗教を持ったようである。そして、あらためて確認したのだが、現代に生きている日本人の多くも宗教を持っている。

 ポスト宗教の時代(宗教が当たり前で、いちいち宗教を説明しなくてよい時代)、心理学はどういうスタンスをとっていくのか。ちょっとした私のテーマである。先日U先生に教えていただいた、エリアーデ世界宗教事典(せりか書房)を真面目に読もう。

忠誠心 7/10

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お金では忠誠心は買えない!(忠誠心 6/10)

2011-10-25 | 第五章「和解と平和」

 しばし足踏み状態であったが、新平家物語に興味が戻ってきた。きっかけは源三位頼政が再登場するころからである。どうも、この76才の頼政さん、兎馬(ロバ)にまたがり、平治の乱の時に平家側につき、世間から馬鹿にされてきたが、密かに源氏再興を願っているのだ。

 忠誠心の鬼であるのに、表面上は全く違う。身内まで目的のために騙したりするのは、日本人であれば皆知っている(最近はどうか?)赤穂浪士の大石内蔵助のようである。

 吉川英治は、戦後、この新平家物語を青梅(今の吉川英治記念館)で書いたそうである。戦後の混乱の中、多くの日本人は、この忠誠心を読みながら、アイデンティティをより統合し、高度経済成長へ団結していったのかもしれない。

 来年の大河ドラマ、平清盛では、この源三位頼政をどうあつかうのだろうか?興味のあるところだが、今までのキャスターの発表の中には残念ながら含まれていない。東日本大震災の後には、この忠誠心の権化のような頼政が必要だと思うのだが・・・

 さて、忠誠心は自分に対する忠誠心もあるかもしれないが、一般に他者に向かう。師であったり、所属する組織であったり、家族であったり、配偶者であったり、神仏であったりする。そんなことを昨日考えていたが、ではお金はどうかと思った。インセンティブにはなるかもしれないが、基本的には向かわないように思う。ただ、人間は理想と現実を混濁するように、混濁する存在であるので、拝金主義のようなことがあるのだろう。でも、お金は他者ではないから、忠誠心にはならず、混乱感が消えたり、アイデンティティが統合されることは無いと思う。

 今日は、最近の疲れをとりながら、のんびり新平家物語でも読もう!でも、吉川英治は直感的に生き甲斐の心理学を理解していたのだろうか?

忠誠心 6/10

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青春時代を明るくする忠誠心!(忠誠心 5/10)

2011-10-24 | 第五章「和解と平和」

 皆さんの青春時代は明るかったですか?

 私の場合は楽しいこともあったが、大体は暗い感情が支配していたようだ。

 「生き甲斐の心理学」を勉強すると、暗い感情と明るい感情のうち、どちらが人間の本質かということを学ぶが、どうも暗い感情が本質のようだ。ゲーテは70年以上の生涯のうち、明るい感情が支配していたのは一ヶ月程度だったと言っていたようだ。だから、私の場合もそんなに異常ではなかったと今では思う。

 振り返ってみると、17才のころ、高校で倫理社会を学ぶころであるが、少年少女時代に母の影響で信じていたカトリック(キリスト教)が信じられなくなり、逆回心のようになり自己混乱感を味わう。高校の後半から大学二年ころまでは、紛争や受験の影響もあり、劣等感や罪悪感が支配していたようだ。

 ただ、私の場合は恵まれた人間関係があり、従兄弟、友達、家族、大学研究室などに次第に強く忠誠心を持つことができたのが幸いしたようだ。人は何かに忠誠心をもつことで、暗い感情が激減するようだ。型にはまらない生き方が個性的で素晴らしいという考え方もあるが、まずは型にはまることによって人は落ち着くものだ。

 会社に入る。セールスマンになる。抵抗あるかもしれないが、そこから何かが統合され、先が見えるようになる。

 ただ、昨日述べたように、信仰の問題等コアになる思想の面で、確固たるアイデンティティを統合できない宿題があった。

 未熟な私が、何となく社会生活を歩めるようになったのも。今思えば、私を受け入れてくれた人たちの御陰なのだと思う。感謝です。

忠誠心 5/10

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一度くらいは小説を書いてみる!(忠誠心 4/10)

2011-10-22 | 第五章「和解と平和」

 大学生になると、工学部なので結構勉強も忙しかったが、2年生になってからドイツ文化研究会に入り、文科系の方とも随分知り合いになった。また、従兄弟との関係から今でも関係がある、創造工学の市川亀久弥先生の著作に親しむようになった。

 1972年は浅間山荘事件もあった(卒業したH高校の私の上級生も関与していて、ちょっと複雑な心境にも)。時代が変わろうとしていたようだ。時代はじょじょにバブルの方向に。

 そんな時代の変化点で、学科の選考があり管理工学科に進学した。創造工学に興味をもったのが一番であった。それから、理工系なのに、東洋思想やキリスト教も当時の最大の関心。何のために生きているのか。浮世ばなれしたことを考えていた。ヘッセやカフカの小説を読んだり、心理学も訳の分からない中でフロイトや夜と霧のフランクルも読んだ。

 そして、大学3年の秋。ドイツ文化研究会の友達や同じ研究室の何人かを誘い文集(小説)を作った。工学部の方が多く、しかも皆はじめての処女小説集。そのために、私も1-2箇月かけて小説を書いたのだ。

 私が書いた小説(短編小説)は今読むと恥ずかしくなるようなものであるが、「生き甲斐の心理学」でいうと、防衛機制の昇華なのかなと今思う。 当時の時代背景や、成育史のもやもやを、それなりに言語化したようだ。それにより不思議に安定を得たようだ。その後、何か踏ん切りがつき、時代の流れに乗っていったようだ。

 昇華というこことの防衛機制は不思議である。他の防衛機制と比べると、プロセススケールが結構高いようだ。

 自分の心の中のうずき。それを言語化したり視覚化したりする。特に若いときのそれは、生涯を貫くテーマと関係するので、後から読むと成育史の記念になる。生涯一回くらいは小説を書きましょう。読者は一人でも、長年にわたって読んでくれる自分がいたりして。

忠誠心 4/10

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しらけ世代の連帯力を大切に!(忠誠心 3/10)

2011-10-22 | 第五章「和解と平和」

 高校から大学の学生時代。思い出してみると、合計7年間のうち2年くらいがロックアウト状態で休講であった(浪人の一年をのぞく)。

 そんな混乱の中、自分のアイデンティティをどう確立できてきたのだろうか?少なくとも大学に入学したとき、自分の将来像が全く見えなかった。その混乱からの脱出のポイントの一つめは連帯力ではなかったかと思う(明日は二つ目に)。

 この連帯力の存在に気づいたのは、連帯力のなさで活力をなくしている世代の存在(若い世代)に気づいたからかもしれない。考えてみれば、1970年ころに、しらけ世代の多くが共感した文言のひとつは、東大全共闘の「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉ではなかっただろうか。この言葉に馴染まない方でも、連帯という言葉にどこかひっかかるのではなかろうか。

 自分の成育史を辿り、青春時代のことを考えると、当時の家族・親戚の絆は今と比べると格段に強かった。私の家の隣にも従兄弟が住んでいて(3人)、大学受験で希望通りに合格できなくても、従兄弟が同じ大学にいっていたので気楽に入学した。戦後の家族(大家族だったり)の絆をバネにしたのか、様々な連帯の絆は強く、生徒総会やクラブ活動なども結構盛んであった。何となく群れる、連帯力はしらけ世代の特長なのだろう。当然ながらロックアウトでもやることは山のようにあった。

 遊びの為に、趣味の為に、家族の為に、生徒集会等の集団の為に・・・連帯する。何か希望が湧いてくる。

 しらけ、生き甲斐がないときに元気になる方法。それは、生き甲斐の心理学でいう3Vの法則で説明がつくかもしれない。例えば小さいことを例にとってみる。

 嫌なことがあって落ち込んでいるときに、楽しい友達との語らいを思い出す(Visualize)。そして、それを実現するためいろいろ考えてみる(言語化する、Verbalize)。そして、「麻雀をやろう」と電話をする(Vitalize)。こんなことで、連帯の輪を広げていく(単なる遊びも)。

 しかし、こうした小さいことや大きいことの繰り返しの中から、現在に至るアイデンティティの道筋がついて行ったように思う。3Vの連鎖なのだろうか?

 連帯というのは、弱い人間に与えられたプレゼントである。一人ではできることは限られているからである。ちょっとした遊びからポーランドの解放に導いた「連帯」まで。連帯はパワーそのものである。

 さて、連帯の見方を変えると、これはフロイトの14の防衛機制の一つ、同一化の防衛機制と関係があるようだ。同一化により、こころの安定を得られるメリットがあり、一方、それゆえ人間的成長がとまってしまうデメリットもある。全共闘の落書きの反対、「孤立を恐れて連帯を求める」という風にもなる。

 でも、そうした連帯でも、将来への貴重なプレゼントになったりするのも確かだ。世の中は不思議でいっぱいである。

 忠誠心 3/10

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