イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

劣等感とコツコツ!(旅と真善美③ 7/10)

2013-09-25 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 あなたはどのように劣等感を克服しましたか?こんな問いは、多分、生き甲斐の心理学を勉強しなければ考えもしなかった問いだろう。しかし、理論を勉強し自己事例を研究していくと、なるほどなと納得し判ってくる。そして、両親とか、小学生時代の恩師とか、同級生とか違った風に見えてきたり。

 さて、U先生から教えていただいた、エリクソンの人格形成理論。この中に劣等感がでてくる。このネガティブな感情は8-12歳に発現するらしい。そしてこの感情の分類は技能(Competence)で、ネガティブな感情の反対は勤勉性である。

 思い出してみれば、小学生の自分には、いろいろ劣等感も大きかったように思う。しかし、今では、劣等感はあるが、それほど気にならなくなってきている。それは、それを克服するノウハウをいつのまにか身につけてきたからなのだろう。ポイントはコツコツと目標に向かい小さな努力を積み重ねることではないかと密かに思っている。

 ところで、千日回峰業で有名な酒井師が先日亡くなられたそうだ。気が遠くなるような厳しい修行の世界。私は比叡山で一度簡単な座禅や貴重な法話を伺ったりして、間接的に師のお話をお聴きしたりして親しみを持っていたので、とても寂しい気分になった。もちろん、修行は劣等感だけの問題ではないが、時間をかけてコツコツ努力されていたテレビの映像の記憶は、私にとっても大きな意味があった。

 昨日、ご紹介した阿部雅龍さんの冒険の準備も、実に周到な準備と訓練があることがよくわかる。自分自身から湧き起った夢を実現するのは、劣等感だけではないかもしれないが共通点があると思う。

 私自身も、例えば10年前会社を辞めるときも一年間くらい準備をしてきた。52歳の時なので、仕事のこと家庭のこと、さらに辞めてからの身の振り方。経済的問題、心理的問題いろいろである。時間をかけることで、夢に近づくことは確かなのだろう。

 52歳の心理的な準備として。丁度生き甲斐の心理学の勉強が役立った。論文で会社を辞めることについて、有名な8つの心理療法理論で思索したのが懐かしい思い出である。一年をかけた勉強ではあったが、実際の決断の時には、それでも大混乱があった。考えようでは情けないとも思えるが、まあ、この勉強のおかげで夢に近づいたことは確かだと思う。

 劣等感だけでは、ないかもしれないがコツコツは大事なようだ。

 旅と真善美③ 7/10

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自己実現の意味!(旅と真善美③ 6/10)

2013-09-24 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 自己実現という言葉はマズローで有名になり、五段階説のなかでピラミッドの頂上にある。それゆえ、生きる最低限の生きるか死ぬかの生理的要求などとはかけ離れ、ちょっと金持ちの道楽的なイメージがあるが。マズロー自身も言っていたが(嘆いていたが)、これは周りから勝手に作られたイメージで真実から遠い。

 自己実現は、死に一番近いところから考えるべきもののようだ。ラテン語でメメントモリ(死を想え)という大事な言葉があるように。

 狭い自分の殻を突き破り、哲学的・宗教的な世界観が入っているのが、自己実現だと私は思っている。

 そして、私が知っている多くの、自己実現の道を歩んでいる人は、必ず自分の死をしっかりイメージし、そこから逆に自分の悔いのない人生を考え抜いているようだ。

 U先生は自己実現のために3つの問いをまとめた。①何のために生きているのか?②生きがいは何か?③自分の魂、心(生育史)、身体を大切にしているか?この三つの問の中に死は直接出てこないが、大いなる前提と考えると、問いの意味が明白になってくる。

 さて、話は変わるがFB友達から、冒険家の阿部雅龍さんの「次の夢の一歩」を紹介していただき読んだが、まさに自己実現とは何かがよくわかる本だと思う。判っているつもりの私も、実に考えさせられた素晴らしい本です。

 旅と真善美③ 6/10

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怖さを克服する知恵!(旅と真善美③ 5/10)

2013-09-23 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 昨晩は、久しぶりで孫娘や二人の子供も含めて、楽しく家族で夕食を共にした。

 10年前、会社を辞める前には考えてもみなかった幸福感だった。

 勇気を出して家族のこと自分のことも考え、会社を辞めたことがよかったかどうかは、辞めた人生を選択した今となっては判らないが、現実の家族の姿を見ているとひしひしと幸福感を味わえた。

 感情生活を振り返ると、10年前会社を辞めるときに襲った恐怖感。それは怖いという感情が主役だったようだ。自分で選び取る人生の怖さでもある。

 怖いという感情は、好きか嫌いかの感情と同じく原初感情だとされている。そして、怖いという感情を抑えて、別の人生を歩み始めたのが10年前。

 さて、怖いという感情を今日は深く考えてみよう。

 幼いころはお化けが怖かった。今と違い、夏には怪談などがもてはやされたように思う。今と違い、幼いころは夜寝るときも、照明の乏しい夜道も怖かった。怖さは、今よりもっと馴染みの感情だったようにも思える(3.11後の東京の暗さで思い出したこともあったが)。

 この怖いという感情、人が成長してくると延長線上には恥辱・疑惑や罪悪感、劣等感など複雑な感情がどんどん現れるようだ。そして、怖いという感情への根本的な処方箋は、逃げたり隠れたりするのではなく、意志力がものをいうのではないか。日本神話を振り返っても、イザナギの黄泉の国への冒険の話をはじめ、様々な物語があるが、怖いという感情があるなか、主人公は真善美を暗に求めて奮闘する。

 私は、小学生(7歳)のころアラスカに行ったことがあるが、ある日国立公園に行った時。全く異文化の鳥や獣が彫刻されたトーテムポールの前に両親から離れて一人見入ったことがある。そのとき、怖いという感情を振り切り、未知のトーテムポールを眺めたのだろう。そして、怖さが何か親しみやすさに変わっていくのを感じたようだ。

 エリクソンの理論を考えても、恥辱・疑惑とセットに発達するのが自律性や意志力。罪悪感は自発性や目的志向性である。さらに劣等感は勤勉性や技能とセットになる。怖さという暗い感情を克服するためのノウハウ(自律性、自発性、目的志向性・・・)を言っているようにも読み取れる。

 しかし、エリクソンから何千年も前に神話というかたちで同じようなことをすでに語っている祖先たちの知恵。神話を読んで心の健康を取り戻したという話をどこかで聴いたことがあるが、本当かもしれない。

 さらに、今では、あまりポピュラーではなくなってしまったが、私の父の時代などでは肝試しがポピュラーだった。肝試しを始め、それを乗り越える様々な知恵。これも、バカにはできないもののようだ。

 旅と真善美③ 5/10

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私の感情傾向をプロットしてみる!?(旅と真善美③ 4/10)

2013-09-22 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 ジョハリの窓というお話がある。自分が知っている自分。自分が知らない自分。他人が知っている自分。他人が知らない自分。そしてその組み合わせで4つの自分がいるというお話である。例えば、自分が知っているが他人が知らない自分がいるとか。自分が知らないが他人が知っている自分がいるとか。

 それが、私たちの置かれた世界の一つの真実なのだろう。

 さて、これと4つに分けるのは似ているが、生き甲斐の心理学のなかに愛用している理論がある。好きか嫌いかという原初感情に関係するが、自己否定、自己肯定。他者否定、他者肯定。この四つの組み合わせの世界の話だ。大切なので4つ書いてみよう。

 自己肯定・他者肯定  (愛の世界?)

 自己否定・他者肯定  (卑屈な世界?)

 自己肯定・他者否定  (傲慢の世界?)

 自己否定・他者否定  (破滅的な世界?)

 自分の感情生活を総合的に考えたり(今日一日はどうだったとか)、今の自分の感情を調べたりで、自分のポジションを意識化することができる。もちろん、それが良いとか悪いとかは抜きにで、気楽にコンパスで自分の感情の位置を調べるのだ。私の哲学は、だいたい自己肯定・他者肯定を目指してはいるが、現実の感情はいろいろ。そして、その感情の軌跡を描いてみると面白い。あの時は卑屈の世界でうごめいていたなとか。あの時の自分は、傲慢の世界で頑張って愛の世界に入ったのかなとかである。

 この分類は、それで何?といわれてしまうかもしれないが、自分にとっては錯乱していた感情生活を整理できるので嬉しい理論だ。

 さらに、自分の感情は自分でもなかなかわからないことがあるので、ジョハリの窓を思い浮かべて、あの時はAさんは私が怒っていると感じたのだなと謙虚に反省をすると、さらに気づきが・・・

 今日は、ふたつのプロットの話をして、ちょっと疲れた。ふぅ。

 旅と真善美③ 4/10

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愛によって人は変わる!(旅と真善美③ 3/10)

2013-09-21 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 昨日はオフだったこともあり、DVDで遅ればせながらトム・フーパー監督の「レ・ミゼラブル」を見た。トム・フーパー監督は生き甲斐の心理学のU先生をはじめ、学友がほれぼれと感心した心理学の名作「英国王のスピーチ」の監督であったが、今回のレ・ミゼラブルも、それ以上に素晴らしかった。ミュジカルの威力もあり、全編が詩のようで、ものすごく感動的。

 丁度、昨日は「いろは歌」を考察したが、この映画も、人の成長という面で興味深々であった。ジャン・バルジャンの司教との出会いやファンテーヌ、コゼット、マリウスの話はもちろんポジティブな成長という意味で感動したが、ジャン・バルジャンを追い詰めるシャベール警部の悲劇には別の意味で考えさせられた。

 シャベール警部はジャン・バルジャンと同じキリスト教徒であるにも拘らず、従順な公僕として職務を全うする原理主義的な人なのである。ジャン・バルジャンにより奇跡的に命を助けてもらうが、それにも拘らず忠実に公務を続け、時代の悲劇に手を汚すことになる。そして、その結果として悲劇が押し寄せる。映画の中ではシャベール警部が綱渡りのように、ちょっと間違えば死が待ち受けているようなシーンが出てくる。人生紙一重というのが私の実感だが、とても象徴的だ。

 私もそうだが、人は生まれながらにして自分で育ってきたかのように錯覚する存在で、若い頃に得た大切な指針や理想(年をとっても引き継がれることが多い)は、実際は自分自身が経験に基づいていなくて、親や教育による借り物であることが多い。そして、それが実人生の経験の中で揉まれると、自分自身で考えた理想に置き換えていければよいが、そうでないと理想と現実のギャップで悲劇が襲うことがある。ひどい場合はシャベール警部のような悲劇に。シャベール警部の傍にはジャン・バルジャンのような人がいてもである。

 しかし、トム・フーバー監督は人が変わっていく条件(ロジャースの6条件など)を知悉している名監督だなあ。

 旅と真善美③ 3/10

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