イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

高いところから観ると違って見える!(こころの柔軟体操 1/10)

2015-11-23 | 第三章「無意識の世界」

 この2-3年、年齢をお聴きしてびっくりするような若い高齢者とお話しすることが時々あるようになった。今までもお会いしていたのだろうが、自分がある程度の年齢になったので、ことさら意識に上るのかもしれない。

 好奇心が並外れてあり、何かイキイキとしてらっしゃる。こころの柔軟性もあられて、自分の柔軟性の問題にはっと気が付いたりもする。そして、社会生活もバリバリ。

 その秘訣を私なりに考えてみると、やはり心と身体と魂を大事にしているためかなと思う。身体も受け身だけでなく、積極的に身体を使う術をご存知。ある方は足腰の鍛錬が違い一緒に歩くとその鍛錬がすぐにわかった。魂も、ご自分の宗教とか哲学を持っていらっしゃり、意識して大切にされている。こころは臨床心理学系のエリアだが、柔軟体操をしているのか(笑)バランスが良い。

 こころの柔軟体操は、昨日まで話題にしていたプロセススケールとかエンカウンターとかいろいろな要素があると思うが、防衛機制にかかわる問題もあると思う。この分野は、年と共に熟達できる分野かもしれない。

 私は6歳ころまで、家や幼稚園や小学校で自分の思い通りにならないときに、時に先生でも手に噛みつくことがあった。伯母さんなどは、私が噛みつくと鼻をつまみ息苦しくなって噛むのをやめさせるノウハウまで身に着けた。そんな私であるが、小学校1年のときに先生に噛みつき、厳しい先生でもあったこともあり激しく怒られ、噛むことはぴたりとやめた。

 それは、恐らく何かの噛みつき(反動形成)の原型があってのことだと気が付いたが、恐らく3歳くらいまで続いた乳離れ問題と関係が深いかもしれない。母が乳離れの悪い私に困り、乳首に苦い薬を塗ったり、お化けの顔を書いたりしていたことを思い出す。そして、それをも乗り越えてヘラクレスのように・・・その後、何故乳離れをやめたかは記憶に全くないので、その習性がひょっとしたら6歳まで抜けなかったのかもしれない。

 というか、今でも何かに執着する性格は抜け切らないので、今でも続いているのかもしれない。縄文病?もその一つかもしれない。

 自分の幼いころはずっと昔のことだが、孫を見ていたりすると当時のことが思い出されることがある。自分の心の原型が刺激されるような・・・。そして、例えば乳離れ問題も当時の解釈ではなく俯瞰した解釈を得ることができることもある。噛みつくことは倫理的にはよくないことだが、長い目でみるとちょっと違う意味もある・・・など。

 写真は先日行った八幡平周辺からの景色。年齢とともに観えるものが変わるかもしれない。

こころの柔軟体操 1/10

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好きなのに嫌いというへん!(こころをみつめる方法 10/10)

2015-11-22 | 第二章「五感と体感」

まだ、待降節になっていないが日本の街はクリスマス気分。先日も、雨の多摩センターの美しいイルミネーションを見て感動。

  

さて、今日はずっとプロセススケールの不一致について考えている。これは、表題のように自分の本音をうまくとらまえることができず、周りに合わしたり、へんに自分に納得したりする現象だ。

特に、私はかつて企業でのサラリーマン生活が長かったので、やめて数年して自分のへんに気付くことが多かった。そして、思うのだが不一致が当たり前のへんになると、自分もいろいろ混乱するが周りも混乱するということが起こるのだ。

そうした不一致を無くすためには、U先生の生き甲斐の心理学のテキストにいろいろ書かれているが(エゴダイナミックスノートなど)、最近の私のおすすめは自分で自分なりの聖地を探すことだ。自分の原初感情、好きか嫌いか、怖いか怖くないか、このあたりの原初感情をアンテナに、アースフィーリングで探すのだ。

この写真は大栗川で蛭が岳と富士山が綺麗に見えるところだが、近くには縄文遺跡が点在することも加わり、私にとっての聖地である。私のように人にそれを知らせるのは余りよくないが、自分の胸に一つや二つ聖地をもっていると、不一致でへんになることは少ないかもしれない。そして、もちろん日々自分も変わるので、それなりに聖地開発を常日頃意識するのも大事かもしれない。

こころをみつめる方法 10/10

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感情の曼荼羅と友達になる!(こころをみつめる方法 9/10)

2015-11-21 | 第二章「五感と体感」

2-3日前に来週の勉強会の資料作りのため、近くの多摩ニュータウン72遺跡周辺の公園等に行った。秋が深まり落ち葉が散り銀杏も本格的に色づき始めていた。

 

 

 

72遺跡から、車で10分もかからない多摩境の田端遺跡にも寄ってみた。縄文後期のストーンサークルである。

  

ついでながら、近くの小山内裏公園にも寄ってみた。

  

多摩の秋は紅葉・黄葉で美しいが、自分のこころに湧き立つ感情もいろとりどり。U先生の名著「生き甲斐の心理学」53ページの≪感情の曼荼羅という世界≫を思い出す。自分や他者を理解するとき、私もそうであったが、自分の感情を二の次に考えたり、時には感情など面倒くさいと考えがちになる。

しかし、すべての感情を神秘的な曼荼羅と考え、湧き立つ感情に対しすぐに嫌悪感を抱いたり疑惑や恥辱感で反応したりするのではなく、ちょっと俯瞰し否定的でなくその意味をとらえなおしてみるのはどうだろうか。

昨日のブログに書かせていただいた、6歳のころの友達の事故死体験解釈の再解釈も、現場を50年以上して再訪したときに湧いた感情がきっかけだった。感情の発見から自己概念の変更にまで及ぶ例かもしれない。

感情の世界は防衛機制の問題と密接につながっており、感情の世界の発見が良いか悪いかはひとそれぞれだと思うが、感情に対し肯定的になるのは、自他肯定の世界への大事な初めの一歩だと思う。

 こころをみつめる方法 9/10

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解釈が変わると世界が変わる!(こころをみつめる方法 8/10)

2015-11-20 | 第三章「無意識の世界」

 今の私は臨床心理系の生き甲斐の心理学に集中しているが、一昔前、若いころは等価変換創造理論に没入していた時期がある。これは、湯川秀樹先生や市川亀久弥先生に遡る理論であり、本来発明理論というより、芸術論や心理学、マーケティングなども含んだ壮大な理論枠組みだったように思う。

 その理論は、発明に応用して発展してきたところがあるが、たとえば魔法瓶の例を以前聴いた。この理論が実際使われたのかどうかわからないが、後から考えると理論どおりということかもしれない。

 真空管メーカが、半導体の発展により、その地位が揺らいできたころ。企業の存続問題で悩んだそうである。真空管は、フィラメントを真空技術で熱を遮断することで成り立つ。真空技術は当時はその程度の応用しかなかったが、ある日、熱を遮断するという技術の本質に気付き、それをお湯がさめないようにする、という応用に転用したようだ。物事の本質、真理を見極め解釈を変えると世界が変わる。技術の応用例だがよくわかる話である。

 そして、臨床心理系の心理学でもこの解釈の問題は、ある意味で同じである。

 臨床心理系の問題の場合は、無意識の世界が関わることが多く、本人も気付かない解釈の問題があることが多いようだ。私の典型的な自己事例では6歳のときの友達が交通事故死することがあったが、倫理道徳的な一般的な解釈と、自分の感情・本音からの解釈の相克だったようだ。その本質が観え、そして深く解釈しなおすことで世界が変わる。これは事実だと思う。

 今の世の中、マスメディアやインターネットと様々な人さまの解釈に溢れている。もちろん、それも無益とは言わないが、それにより自分の隠れている本音(多くの場合正しい)がスポイルされる。時に、静かにのんびりと自分自身と対話する習慣が大切なことだと思う。

 こころをみつめる方法 8/10

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言葉を発する・・・(こころをみつめる方法 7/10)

2015-11-18 | 第一章「意識と知覚」

今日の朝は、深い霧であった。そして、霧を見ていると、意識と無意識の境界というか、こころの不思議さに想いを寄せてしまうようだ。

昨日はつつじが丘での勉強会で、U先生にこの一年書き進めてきた課題の論文を提出するなど感動的な勉強会であったが、その中で無意識の意識化の問題や日本人の言葉に関する感覚について思いを巡らすことができた。

特に言葉、言霊の問題はなんとも興味ある問題だ。

言葉を単なる物理的な音声として位置付けるのではなく。霊的なもの、神的なものと考え、特別な想いでもって言葉を発する。いにしえはそういう感覚が今よりもっと強烈だったようだ。

万葉集の有名な歌人、人麻呂や虫麻呂の歌にも、そのような感覚や当時の言霊文化がしのばれる。また、私はカトリック、キリスト教の信徒であるが、受胎告知でのマリアの言葉「お言葉どおり、この身になりますように。」が好きだ。

いにしえはそうだったが、今の日本人の寡黙さというか言挙げしない文化は、世界的に見ても群を抜いているように思う。私は、日本が縄文文化の影響を深く受けているのではないかとひそかに思っている。

その典型は、日本書紀や古事記といった国定版の記録はとにかく、山の神をはじめ多くの神々の教義がないことだ(言葉として残されていない)。口をつぐんでいるのだ。これは、先に述べた万葉集の中で感じる文化からでも推測できる。

ただ、こうした文化が良いことかどうかは現代においては何とも言えない。たとえば、私の祖父の兄は芝山岩事件で遭難したのだが、このことについて祖父母は何も私に語らなかった。無責任なことは言わないという精神はわかるのだが、身内として何を感じたくらいは・・・と思ってしまう。

言葉は、神仏・あるいは無意識 対 人の関係もあるが、人対人というコミュニケーションの問題もあるのだ。

生き甲斐の心理学はでは、プロセススケールを大事にしているが、その中で自己表現の大切さを学ぶ。多くの場合自己表現は言葉によってなされる。こころの健康にとっては、口をつぐむより自分の本音等を上手に語るほうが良いのだが・・・

こころをみつめる方法 7/10

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