ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

◎宝塚歌劇 5 歴史 3

2014-09-02 21:49:39 | 宝塚
宝塚歌劇 5 歴史 3

余興から興行へ

○大正3年(1914年)12月、大阪毎日新聞社主催の「大毎慈善歌劇会」に宝塚少女歌劇団が出演することになった
 宝塚が入場料を取ったのは、この大毎慈善興行が始まりで、1等1円、2等50銭であった
 この興行で宝塚少女歌劇団の知名度が上がった

○大正7年(1918年)、ホームマガジン「歌劇」が発刊

★初の東京公演

・大正7年(1918年)5月26日から5日間、帝国劇場で東京公演を行った

 帝国劇場は明治44年に渋沢栄一、大倉喜八郎らの民間財閥が株主となって建てられた劇場である
 これから帝国劇場で年に1回の公演が続く
 やがて新橋演舞場や歌舞伎座での公演が行われた

「花組」「月組」の誕生 大正10年10月15日

・大正8年(1919年)、3年前に廃園になった箕面動物園の中にある公会堂を移築し、歌劇新劇場(公会堂劇場)とした
 規模はパラダイス劇場の約3倍

 1階左右と2階の1部が椅子席で、予約代として20銭、1階の客席中央の畳敷きの平土間が無料だった
 大正9年(1920年)3月17日、公会堂劇場で公演を開始した

 大正10年(1921年)3月、従来どおりの公演を続ける第1部と、より高度な内容をめざす第2部に分けられた

 しかし、観客の増加に対応して、公演回数を年4回から8回に増やす必要が生じ、大正10年10月15日、第1部を「花組」、第2部を「月組」と名づけ、同列の2組が発足した(「宝塚歌劇今昔物語」橋本雅夫、小学館など)

 2つの組ができたことで、組の対抗意識が生まれた

東洋一の宝塚大劇場(旧大劇場)建設

・大正12年1月22日、公会堂劇場より失火、パラダイス劇場や公会堂劇場が全焼した

 花組は中国地方各都市の巡回興行

 急いで木造の新歌劇場を建てて3月に開場したが、規模は縮小した

 そこで東洋一の4000人収容の大劇場(旧宝塚大劇場)が建設されることになった

◎大正13年(1924)7月1日、大劇場での常時公演に備えて、「雪組」ができた

◎大正13年(1924)7月19日、宝塚大劇場が開場した

「花組」「月組」「雪組」の3組が交替で、公演期間1か月、年12回の公演を行う常時公演体制が確立し、大正14年(1925)1月1日、旧・宝塚大劇場で常時公演を開始した

 新温泉の入場料は30銭、旧・宝塚大劇場の座席券が30銭という低料金であった


レビュー「モン・パリ」

○この大劇場にふさわしい演目を求めて、演出家の岸田辰彌が大正15年(1925年)1月から昭和2年(1927年)5月までパリに派遣された
 岸田辰彌のすぐ上の兄に洋画家の岸田劉生がいる
 岸田辰彌は小林一三が松竹所属の新星歌舞劇団から宝塚に招聘した

 帰国した岸田辰彌は日本初のレビュー「モン・パリ」を企画した
 幕無し16場、登場人物延べ数百人、上演時間1時間半という大規模なものであった

 レビューとは、歌・踊り・コントなどあらゆる舞台芸術・演芸の要素をとりこみ華麗多彩な展開を見せる娯楽性の強いショー形式のもの(「大辞林」)である

 まず宝塚の演出家の串田福太郎なる人物が「私のヨーロッパ旅行の土産話をしよう」と口上をのべると、第2場「神戸埠頭、香取丸出帆の場」になり、緑の袴の生徒たちに送られて出発する。続いて上海、香港、インド、セイロン、エジプトなどの場面が続く
 第14場は「田舎の停車場」、煙突の帽子に燕尾服、ズボンに車輪を描いた衣装で1列に並んで足を上げる、24名による日本初の「ラインダンス」となる
 ラインダンスの振付は、岸田の振付助手をしていた白井鐵造(てつぞう)が、岸田の持ち帰ったパリの舞台写真の説明を聞いて、自分で工夫して振付したという(「カタラヅカ・ベルエポックⅡ」津金澤聡廣/名取千里、神戸新聞総合出版センター)
 
 第15場はオペラ座前広場、第16場が劇中劇カジノ・ド・パリのレビューの場面で、ヴェルサイユ宮殿を背景に大階段からルイ14世と王妃がおりてフィナーレとなる(「宝塚百年の夢」植田紳爾、文春新書 「宝塚というユートピア」川崎賢子、岩波新書)

 問題は経費で、当時は入場料が30銭、年間の公演経費が約3500円のところ、概算で14000円となんと4年分の経費がかかるという

 衣装代だけで12000円という高額なものだった
 絹や金銀の糸で織られた布地、ダチョウの羽根を使った扇、アクセサリー、首飾りなど豪華な材料など一流品、本物にこだわった

 大反対にあうが、岸田はこれが上演できないのなら退団するという
 小林一三は「良いものなら、いくら経費がかかってもやれ!」と決断を下し、昭和2年(1927年)9月1日、日本初のレビュー「モン・パリ」が上演された

・9月1日は宝塚歌劇団の「レビュー記念日」となっている

 ラインダンス、羽根扇、「銀橋」などはすべて、岸田辰彌につづいて欧米に派遣された白井鐵造が持ち帰ったものである
 この時のラインダンス、大階段を使ったフィナーレなどはレビューの形式として現在まで伝承されている

ラインダンス

・ラインダンスは和製英語で、別名ロケットダンスともいう
・昭和12年に上演された「マンハッタン・リズム」に代表されるアメリカンスタイルのレビューでは、タップダンスを織り込んだ新形式のラインダンスが採り入れられ、この踊り子たちを「ロケット」と呼ぶようになった
 「ロケット」はニューヨークのラジオ・シティ・ミュージックホールのダンシングチームにつけられた愛称である(「宝塚歌劇今昔物語」橋本雅夫、小学館)

・入団したばかりの研究科1年の生徒は、同期生全員による初舞台でラインダンスを披露する

「パリゼット」

○昭和5年(1930年)8月1日、白井鐵造の帰朝第1回作品のレビュー「パリゼット」が上演された

・「パリゼット」とは「パリジェンヌ」よりも可愛らしい「パリ娘」という意味

・白井鐵造は欧米のオペラ、オペレッタ、ミュージカル、映画など視察してまわった中で集めた最新の流行歌を「パリゼット」で紹介した
 白井鐵造は欧米からオペラ、ミュージカル、ピアノ曲、合唱曲、シャンソン、ダンス音楽などの楽譜を持ち帰った(「カタラヅカ・ベルエポックⅡ」)

「すみれの花咲く頃」

・「パリゼット」の主題歌の1つ

 「すみれの花咲く頃 初めて君を知りぬ
  君を思い 日毎夜毎 悩みしあの日の頃
  すみれの花咲く頃 今も心ふるう
  忘れな君 我らの恋 すみれの花咲く頃」

・原曲はオーストリアのウィーンの作曲家フランツ・デーレが1929年(昭和4年)に作曲した「白いニワトコの花がまた咲く頃」と訳される曲である
 翌年フランスのカジノ・ド・パリのレビューにおいて「白いリラの花がまた咲く頃」となった

 白井鐵造は、「白いリラの花」を、日本人に身近な花「すみれの花」に変えて作詞した

 白井鐵造の故郷、静岡県春野町に咲くすみれの花
 「すみれの花咲く頃」の歌碑は旧春野町立南中学校(現在廃校)、豊橋市大岩寺の白井鐵造の墓所に建てられている

・リラの花(ライラック)が日本ではポピュラーな花でないこと、パリですみれの小さな花束を売っている少女がよく見かけられ、「パリゼット」にもすみれ売りの老女が登場したことなどがその理由とされる(「カタラヅカ・ベルエポックⅡ」)
 白井鐵造はこの歌をテンポをゆっくりにして宝塚用に編曲(酒井協)させた

・すみれの花は、宝塚歌劇団のシンボルとなり、宝塚市の市の花になっている
 宝塚市歌は宝塚歌劇団が作曲したものである

すみれ、スミレ、菫

すみれの花言葉
紫のすみれ 「愛」「貞節」など
白いすみれ 「無邪気な愛」「あどけない恋」「純潔」など
黄色のすみれ 「つつましい幸福」「田園の幸福」など